◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章19節~23節】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
◎メッセージ【心の平安をはばむもの】
《「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
主イエスを信じる者には、「真の平安」が与えられています。「聖霊を受けなさい。」と主イエスは言われました聖霊は、私たちの中に住んでおられます。それこそが、真の平安を持っている証拠であり、救いの保証なのです。
しかし、悪魔はその平安を奪おうと、様々な攻撃を仕掛けて来ます。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
心の平安をはばむものの第一は、「赦さないこと」です。「だれかの罪」とは、抽象的な意味での罪ではなく、私たちに直接なされた罪を示しています。自分に関係のない人の罪を赦すことは簡単ですが、直接被害を被った罪はなかなか赦すことが出来ないのが人情です。
ある時、シモン・ペテロが主イエスに質問しました。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
「私は七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」
そして、さらに分かりやすくする為に「一万タラントの負債のある僕」のたとえ話をされたのです。この一万タラントとは、その当時の王の身代金に値します。日本円に換算するとしたら、概ね6,000億円となります。王はその僕の借金を棒引きにして赦してあげるのです。 しかし自由の身となったこの僕は、彼に100タラントの借金がある友人を見つけます。そしてそれを厳しく取り立てようとしたと言うたとえ話です。
人を赦すことは非常に難しいことです。しかし、十字架に流された血潮によって、私たちの罪は赦されたのです。だからこそ「赦しなさい」と、主は言われます。これは自分の力では到底為しえないことなのです。聖霊によって可能なことなのです。赦さなければ、その人に対して行なわれた罪が、その人の中に残ることを教えています。赦さない思いを持ち続けることは不幸です。それは、その人の平安を根こそぎ奪って行きます。
次に、心の平安をはばむものは「思い煩い」です。思い煩うことは、「あれこれ考えて悩む」ことを指します。使徒パウロは勧めます。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
そしてペテロもこう勧めています。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」
思い煩うと心の平安は取り去られます。思い煩う事は不信仰の何物でもありません。
そして最後に、心の平安をはばむものは「試練」です。試練を望む人はいないでしょう。しかし、神の子どもであるならば、試練は必ずと言っても良いほどにやって来ます。
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」
この言葉は、真に信頼に値する言葉です。なぜならパウロ自身が経験した心の叫びだからです。そしてさらに、
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちの為には、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています。」と。
主イエスを心から信頼しましょう。このお方こそ、創造主なる真の神様であられます。そして私たちの罪を全部背負われ、身代わりとして、十字架にかかり、すべての裁きを一身に受けて下さったのです。主イエスに対する全き信仰こそが、真の平安を心の中に置き続けることになって行くのです。》