◇◆◇日々のみ言葉
2021年10月28日(木)
◎聖書箇所【マタイの福音書22章23節~28節】
22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスの所に来て、質問して、
22:24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
22:25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
22:27 そして、最後に、その女も死にました。
22:28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
◎ショートメッセージ
《サドカイ人とは、サドカイと言う国の民ではありません。律法学者の中のサドカイ派に属している人々を指し示します。
新聖書辞典(いのちのことば社)によりますと、
■サドカイ派 『使徒の働き5章17節以外は「サドカイ人」と訳している。サドカイ人はエルサレムの神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級であった。その起源については、ダビデ、ソロモンの時代に、エブヤタルの失脚に伴って、祭司の指導者として活躍したツァドクに由来するという説や、ヘブル語のツァッディーク(義なる者)という形容詞に由来するという説があるが、はっきりしたことは分らない。
サドカイ派が歴史上姿を現わすのは、アンティオコス・エピファネスの時代(前175~163年)に彼のヘレニズム化に反対して立ち上がったマカベア家(ハスモン家)によって古い祭司系譜が一掃され、マッタティヤの子シモンが大祭司になった時からである。
このマカベア家の宗教的、政治的な立場を支持する党派としてサドカイ派が登場し、また、一方では民衆の宗教的指導者として厳密な律法の遵守を説くパリサイ派との間に政治と宗教を巡る主導権争いが、紀元70年のエルサレム陥落まで続くのである。さかのぼって、紀元前63年にローマがパレスチナを支配するようになり、さらにヘロデ大王が紀元前37年にエルサレムの王位につくと、マカベア家の政治的指導性は失われ、その後大祭司とサドカイ人はローマとヘロデの圧制に苦しむことになる。ヨセフォスによれば、ヘロデの時からエルサレム滅亡まで28人の大祭司が替ったと言う。このことは、大祭司とそれを支持するサドカイ人の力があなどりがたいものであり、ローマが、お気に入りの大祭司によってユダヤを支配しようとしたことをも意味している。
新約の中では、「サドカイ人」という言葉は14回現われるが、いずれも複数形である。5箇所ではパリサイ人と一緒に用いられている。バプテスマのヨハネが、パリサイ人とサドカイ人を同列において「まむしのすえたち」と呼んでいることは興味深い。また、イエスの共同の敵として現われる。しかし、パリサイ人と違って、彼らは復活はないと主張していた。
ヨセフォスの証言によれば、彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していたことが明らかである。
サドカイ派はパリサイ人と違って「モーセ五書」に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる。しかし同時に、彼らは宗教的指導者であると共に、政治の指導者でもあったので、初代教会の主張する復活論に教理的に反対するのみならず、彼らの力が増大すれば、政治的な混乱を招き、自分たちの立場が危うくなることを恐れて、激しく反対したものと考えられる。彼らの関心は主として世俗的なことであり、古い形の宗教的教義を固守はしたが、宗教上の問題には真の関心を寄せなかったと言える。』、と定義されています。
明日も同じ箇所からとなります。》