◇◆◇日々のみ言葉
2023年4月18日(火)
◎聖書箇所【マルコの福音書3章1節~5節】
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
◎ショートメッセージ
《引き続き同じ箇所からです。再三ですが、現代訳を掲載します。
『3:1 イエスはがまた会堂に入って来られると、そこには、片手の不自由な人がいた。
3:2 パリサイ派の人たちは、イエスが安息日にその人を治すかどうか、じっと伺っていた。それは、イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手の不自由な人に、「立って、真中に出て来なさい。」と言われた。
3:4 それから、彼らに言われた。「安息日に善を行なうのと、悪を行なうのと、どちらが良いでしょうか。また安息日に、人の命を救うのと、殺すのと、どちらが良いでしょうか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは心に憤りを覚えられ、彼らを見回し、その心のかたくななことを嘆きながら、手の不自由な人に向かって、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。』
昨日は、片手の萎えた人の視線から、共に考えて見ました。今日は4節において、主イエスが語られた言葉について考えて見たいと思います。
「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」
安息日は人の為に造られたのです。人が安息日の為に造られたのではありません。パリサイ人や律法学者たちにとって、片手の萎えた人を癒すことは、悪を行なうことであったのです。
しかし、人を癒す医療行為は、本来、善の何ものでもありません。そうすることによって、その人は生きるからです。もし、「安息日であるから、私は医療は行ないません」と言う医者がいたとしたら、間違いなく、助けを求めている人を見殺しにすることになるでしょう。
主の質問に対して、彼らは黙っていました。何と言う欺瞞、何と言う無関心、それゆえ主イエスは、怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆かれたのです。
私たちも、パリサイ人や律法学者たちと同じように、決して心を頑なにしてはなりません。弾力に富んだ、柔らかな心を持つことを、常に心掛けて行こうではありませんか。》