• 日々のみ言葉 2015年9月2日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月2日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章40節】

    4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

    ◎ショートメッセージ

    《「恐れる」という日本語は、「怖れる」とも、また「畏れる」とも書く。その意味は、概して「こわがる」ことであるが、若干「漢字」によっては、意味が異なるとも言える。これは、日本人独特の感性を、きめ細やかに表現してとも言える。

     「恐れる」とは、相手の力におされ、心が弱くなる。かなわないと思いこわがる、という意味である。
     「怖れる」とは、悪いことが起きるのではないかと気遣う、あやぶみつつしむ、と言う意味である。
     「畏れる」とは、うやまって近づかない、おそれ多く思う、たとえば「神を畏れる」と言う意味である。
     ただ、どの漢字を使うのかは、わりかし曖昧で、どちらの意味にも取れる場合が多い。

     では、この時、主イエスが言われた「こわがるのか」と言う言葉の意味は、どの「おそれ」に該当するのであろうか。

     私は、二つあると思う。その二つの意味を併せ持って、主イエスが言われた、と推測するものである。

     一つは、十二使徒の中の4人のかつての漁師が、それまでに経験したこともない、ガリラヤ湖での凄まじい嵐と、死への恐れである。

     もう一つは、「黙れ、静まれ。」と、風と波をしかりつけ、一瞬に静めてしまわれた主イエスへの「畏れ」である。

     聖書には、「恐れるな」という言葉が、365回出てくると言われている。この数からして人間は、私たちは、一年中、毎日「恐れている」者であることが分かる。それゆえ主イエスは、父なる神は、「恐れるな」と言われるのである。

    「信仰がないのは、どうしたことです。」

     マタイの福音書は、「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。」と、主イエスが起き上がる前に、風と湖をしかりつける前に、このように言われたことを書き記している。

     ルカの福音書では、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と、マルコの福音書と同じく、湖が大なぎになった後に、主イエスが言われたことを書き記している。

     このことから、主は同じような言葉を、2回言われたことが推測される。また、主イエスの言われた言葉からは、その口調は分からないが、弟子たちをしかりつけられたとも、また優しく諭されたとも、どちらとも取れる。どちらにせよ、主イエスは悲しまれたに違いない。

    「信仰がないのは、どうしたことです。」

     この言葉は、今も、主の弟子である私たち一人一人に語りかけられている。
     私たちは、本当に主イエスを信じているのだろうか。いや、信じていなければクリスチャンではあるはずがないが、私たちは、本当に主イエスを信頼しているであろうか。
     このお方に、本当により頼んでいるのだろうか。このお方が、今も生きておられることを。本当に私たち一人一人の頭の毛の数さえもご存知であることを。このお方が、どのようなお方であるかと言うことを。本当に、心の奥底から信じているであろうか。》

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