• 日々のみ言葉 2015年9月3日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月3日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章41節】

    4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

    ◎ショートメッセージ

    《十二使徒たちは、間近で主イエスのいやしの御業、悪霊の追い出しなどを見て来た。また、ヨハネは、最初のしるしとして、カナの結婚式の奇跡を書き記している。この時は、まだ主イエスの公生涯の、ごく始まりの時であり、この奇跡を経験したのは、シモン・ペテロと弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネ、そしてピリポとナタナエル(バルトロマイと同一人物)の、6名であったと思われる。なぜなら、かめの数が6つだからである。

    『それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
     すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
     さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
     イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
     宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。彼は、花婿を呼んで、言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
     イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネの福音書2:1~2:11)』

     確かにこの時、彼ら弟子たちは自分たちが汲んだ水が、一瞬にしてぶどう酒に、しかも今まで飲んだことのないほどの、最高のぶどう酒に変わったことを体験したのである。もちろん彼らは、そのぶどう酒を味わった。おそらく、心ゆくまで飲みふけったに違いない。80リットル~120リットルの6つのかめに水をいっぱいにするのは、かなり重労働であったはずで、喉がからからになったからである。この奇跡を通して、「弟子たちはイエスを信じた。」とある。

     そして今回、ガリラヤ湖においての体験である。それは、人間がどんなに努力しても立ち向かうことができない「大自然」への権威と奇跡である。
     たとえ私たちが、どんなに、台風や嵐に向かって「黙れ。静まれ。」と叫んだとしても、まず間違いなく台風は一瞬にして消え去らないであろうし、嵐もおさまるはずはない。ましてや、晴天が続く天気に、「雨よ降れ。」と叫んだとしても、雨はそうたやすく降ってはくれない。大地震や火山の噴火などは、人間が立ち向かうには、あまりにも巨大である。しかし主イエスは、それらをすべて創造されたお方である。大自然に対しても、権威を持っておられるのだ。まさに「超自然」のお方なのだ。
     弟子たちが、非常な恐怖を覚えたのは、まさか風や湖が、大自然が、主イエスの権威に従うさまを、見たからである。

    「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

     しかし、このような体験をしたとしても、まだ弟子たちの霊的目は開かれてはいなかった。ただ「この方はどういう方なのだろう。」と、畏怖の念を抱いたに過ぎなかった。 この後、約3年にわたる主イエスご自身による弟子訓練が続くこととなる。それでも、主イエスが十字架に架かられた時には、皆逃げ出してしまうのだ。十字架のみ側には、主が愛されたヨハネと、主イエスの母マリヤだけが、寄り添うこととなる。

    「いったいこの方はどういう方なのだろう。」

     あなたや、私にとって、主イエスとは、いったいどういうお方なのであろうか。多くの人々は、今から約二千年ほど前に、エルサレムにおいて十字架にかかられたお方、イエスと何の関わりもない人生を歩んでいる。彼らに取っては、それは余りにも遠い過去の出来事にしか思えないからである。

     しかし聖書は、はっきりと語っている。
     このお方は、主イエスは、すべての人の主であられることを。この真理、真実から逃れ出る者は誰一人としていない。
     先に救われた私たちクリスチャンは、真理を知っている。主イエスから、真理がその手に渡されている。

     主は言われた。「私が道であり、真理であり、命なのである。」と。
    すべての答えは、このお方が握っておられる。このお方だけが、すべての疑問を解決してくださる方である。》

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