• 日々のみ言葉 2015年9月4日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月4日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章35節~41節】

    4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
    4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
    4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
    4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
    4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
    4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
    4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

    ◎ショートメッセージ

    《数日間にわたり、この箇所を細かく学んで来た。今回は、この出来事から改めて二つのことについて学んでみたい。
     一つは、「主イエスは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」ことについて考えてみよう。

     さて、この時の弟子たちはともかくとして、私たちは、主イエスが、まことの人であり、またそれと同時にまことの神であることを、すでに知っている。
     このことを信じるには、聖霊なる神の力がなければ、難しいことでもある。ましてや、当時の弟子たちは、主イエスと共に食事をし、寝泊まりし、三年半も一緒にいたのである。それゆえ自分たちと全く同じ人間と見られた主イエスを、「神の御子」いや「創造主なる神」であることを、信じることができなかったことは無理もない。

     主イエスは、私たちと同じ肉体を持たれた。ヘブル人の手紙の著者は言う。

    『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル人への手紙2:14~2:15)』

     主イエスは、私たちと同じように血と肉とを持たれたと言うことは、主イエスもお腹が空き、喉は渇き、そして疲れを覚えられ、休息と睡眠が必要であったということだ。それだけではない。私たち人間の誰もが持つ生理的現象を同じように持っていた。暑ければ汗をかき、寒ければくしゃみをし、眠くなればあくびをされたのだ。しかし、それは主の肉性であり、主イエスの神性は、どんな時でも眠ることなど、決してなかった。

     弟子たちは、ともの方で枕をし、眠っておられる主イエスに腹を立て、そして起こしたのだ。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

     主イエスは、まことの神であられる。詩篇の作者はこのように謳う。

    『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
     私の助けは、天地を造られた主から来る。
     主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
     見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
     主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
     昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
     主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
     主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
     (詩篇121:1~121:8)』

     「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」
     主イエスは、その肉体は眠っていても、その神性は、霊は、眠ってはおられないのである。ここが私たち人間と、「神の御子」との違いである。弟子たちには、「眠っているイエス」ではなく、「起きているイエス」が必要であった。しかし眠っていても、起きていても主は、神様なのである。大切なことは、主が共におられるということだ。

     次に、もう一つの点について学びたい。
     この後、主イエスと弟子たちの乗る舟はゲラサ人の地に到着する。つまり「向こう岸」に。おそらく夜明け前か、あるいは夜が明けた頃に、岸辺に着いたと思われる。
     そこで何と主イエスの一行を迎えたのは、大勢の群衆ではなく、悪霊(レギオン)に憑かれた男であった。

     あのガリラヤ湖での凄まじい嵐は、この悪霊が追い出されることを知っていて、主イエスのじゃまをするために、起こしたのではないかとも、考えられる。しかし、詩篇107篇における預言では、「主が起こされた」と、書かれている。もちろん主の許可が無ければ、サタン(悪魔)は何をすることも出来ない。
     ここで考えられることは、主の許可のもとに、悪霊(レギオン)が、嵐を引き起こしたということである。

     サタン・悪魔・悪霊どもは、主イエスの許可がなければ、私たちクリスチャンに何をすることも出来ない。と言うことは、すべてが主の御手の中にあることとなる。もし何か試練が起こったとしたら、それは主の許可のもとに起こったことである。そして主は、そこから必ず救い出してくださる。

     使徒パウロは言う。

    『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第Ⅰ10:13 )』

    『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28 )』

     私たちは、このことを決して忘れてはならない。主は、良い神であられる。》

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