• 日々のみ言葉 2015年9月9日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月9日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章17節】

    5:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。

    ◎ショートメッセージ

    《主イエスが、このデカポリス(10の町という意味)に、福音を伝えに来たのは、今回が最初で最後であった。ここで主イエスが行なったことは、レギオンと呼ばれる悪霊に取りつかれた男二人を解放したことであった。その場面を、豚飼いたちが見ていたのだ。

    『「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
     ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
     イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
     そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
    見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。(マルコの福音書5:9~5:16)』

     豚飼いたちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせたとある。そして近くの町や村々から、大勢の人々が何事が起こったのかと見にやって来たのである。主イエスの評判とうわさは、おそらくこのデカポリスの町々にも、すでに伝わっていたに違いない。

     そして、主イエスが、多くの人々を癒やされたこと、また当時では大問題であった、悪霊を追い出されたことを、知っていたと思われる。当時は、今のように情報網が発達していたわけではないが、口コミで広がる速さは、まさに驚異的であったとも言える。

     それは、ローマ帝国によって、道路が整備されていたからである。ローマを中心として、「アッピア街道」のように、奇跡的な土木工事による道路が、張り巡らせていたからである。その恩恵にユダヤ人を始め、多くの民族があずかったというわけだ。

     またデカポリスは、舟で行くと、カペナウムから20キロくらいの距離にあった。最も気象条件の良い時には、約2時間くらいで湖を渡ることができた。よって主イエスの説教を聞きに、また癒やしや解放を求めて、日帰りでも、十分、舟で往復できたのである。今の飛行機のように、何と便利なことであろうか。歩くよりも舟の方がやはり早い。

     そんなデカポリス地方の町た村々の人々は、主イエスに、「この地方から離れてほしい。」つまり「出て行ってほしい。」と懇願したのである。

     やはり「異邦人」の町である。彼らに取って、豚二千匹は、貴重な財産であり、また彼らには、「病いのいやし」や「悪霊追い出し」などの霊的なことよりも、これ以上、自分たちの経済的基盤を脅かされることを、忌み嫌ったのだ。
     おそらく、まだ多くの豚が飼われていたはずである。これ以上、財産を失いたくはない。また彼らには「ユダヤ人の救い主」など他人ごとであり、どうでも良いことであり、全く必要なかったのである。

     ここに私は、残念ながら日本人の姿が、重なって見えて来るのだ。

    「キリスト教は、西洋の宗教だから、日本人にはなじみのないものであり、むしろ仏教や神道(神社・仏閣)の方が、日本人にとっては、しっくり行くんじゃないの。」とか、私は良く言われた。

     しかし「神の言葉」である聖書は、はっきりと語っている。たとえ人が信じようと、信じまいと。

     使徒のリーダーであるシモン・ペテロはこう語る。
    『神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(使徒の働き10:36)』

     異邦人の使徒パウロはこう語る。
    『ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。(ローマ人への手紙10:12)』

     「すべての人の主」であられるイエス・キリストは、その言葉通りのお方であられる。誰も、その創造主である主イエスから逃れることは出来ない。このお方によって創造されなかった人間は、誰ひとり存在しない。

     たとえその人が、「自分とイエスとは何の関係もない。」と思ったとしても、「白い御座の裁き」の座において、その人は、その人自身の目で、「すべての人の主」であるイエスを見る。その人は、その人自身の耳で、「すべての人の主」であるイエスの声を聞く。その時、その人は本当に真理を知ることとなる。それは、主イエスこそ、真理であり、道であり、命であられたことを。

     しかし、その時では、もはや手遅れなのだ。なぜなら「白い御座の裁き」の後、その人に残された道は、燃えさかる永遠の地獄の火の中に投げ込まれるだけだからである。

     主イエスよ。来てください。この日本に。この国を見捨てないでください。この国に、今までかつて起こったことのない大リバイバルを、どうかお与えください。》

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