◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月12日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書5章22節~23節】
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
◎ショートメッセージ
『主イエスは、しばらくの間、舟に留まっておられた。この状況を打破するためには、やはり弟子たちの力が必要であった。おそらく弟子たちが、手分けをして、人々を先導し、また舟を岸辺につけることが出来たのある。そして主イエスが、人々に教えようとされたその時である。
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が主イエスの御元に進み出たのである。
会堂とは、カペナウムのユダヤ人のシナゴークのことである。今でもガリラヤ湖半にその遺跡は残されている。二千年前に、主イエスが説教され、また右手の萎えた人をいやされた場所であることは間違いない。さて、このヤイロは、おそらく弟子たちも、また主イエスご自身も、顔見知りであり、良く知っていた間柄であると思われる。ヤイロは、会堂の建物の管理と礼拝の準備の責任を負っていた。そのヤイロが進み出たのである。
ヤイロは、カペナウムの会堂にて主イエスが行なわれた様々な奇跡や、悪霊を追い出されたさまを、目の当たりに見ており、この時には、すでに主イエスを信じていた。それゆえ大きな問題が家族に起こった時、真っ先に主イエスの御もとに来たのである。
ルカは、平行記事としてこのように書き記している。
『するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。(ルカの福音書8:41~8:42)』
何と、死にかかっているのは、ヤイロの十二歳のひとり娘なのだ。父親に取っては、可愛くてならない、そして何にも代えがたいひとり娘が、病気で苦しんでおり、今にも死にかかっていたのである。一生懸命、主イエスにお願いするのは、もう当然である。
「どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
「ヤイロは、主の足もとにひれ伏した」とある。これは、主イエスに対する礼拝である。
人は、何か問題が起こると、まず何とかして自分の力で解決しようとする。今まで自分が学んで来たことや経験したきたこと、そのすべてを用いて自力で解決しようとするのが普通である。
この時にも、ヤイロは自分のひとり娘を救おうとして、あらゆる試みをしたに違いない。知っている限りの医者に診てもらったに違いない。効くと思われる高価な薬をも、惜しみなく与えたはずだ。しかし万策が尽きた。医者のサジは投げられたのである。もはや何をしても手遅れとなったのだ。今にも可愛いひとり娘の命は、風前の灯火で、消えようとしていたのである。
しかしヤイロは、まだあきらめなかった。最後に頼れるお方を知っていた。そのお方の所に行き、そのお方を自分の家に、ひとり娘の所にお連れさえすれば、娘は助かる、娘は必ずいやされる、という「信仰」を持っていたのだ。ここに主イエスを知らない人と、主イエスを「神の御子」として信じている者とに、決定的な違いがある。
私たちはどうであろうか。すぐにあきらめてしまわないだろうか。確かに、今の私たちは、この時のヤイロのように、目の前に生きておられる主イエスご自身を、この目で見ることはできない。またそのお声を聞くこともできない。ましてや主イエスに触れることもできない。しかし、このお方は、生きておられるのだ。昨日も今日も、そしていつまでも主イエスは、変わることがないお方なのだ。永遠に生きられるお方なのである。
それを信じているとしたのなら、大きな問題が起こった時に、真っ先に私たちが行くべき所は、主イエスの所であるはずであり、その足もとである。その足もとにひれ伏して、ただちに礼拝するのである。そしてお願いするのだ。一生懸命に。「一生懸命」とは真剣に、という意味である。その時、あるいはやがて、私たちは、このヤイロのように、主イエスの奇跡を体験させていただくことになるのである。
主イエスは、私たちがどれほど真剣か、またどれほど本気か、本当に心の奥底から願っているのか、すべて知っておられる。》