• 日々のみ言葉 2015年9月11日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月11日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章21節】

    5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

    ◎ショートメッセージ

    『この1節は、いつもサーッと読み飛ばしてしまいやすい箇所である。「日々のみ言葉」では、可能な限り、出来るだけ短い聖句から、学び、またショートメッセージを配信したい。
     さて、まず主イエスは、前日のおそらく午後の時間に、シモン・ペテロの舟に弟子たちと共に乗りこみ、湖から岸辺に向かって、なだらかな丘の斜面に座っている大勢の人々に教えられた。そして夕方が来て、日が沈み、ユダヤ暦では、新しい一日が始まったことになる。
     本来なら、もうカペナウムにあるシモンの家に戻って、シモンの姑と妻のもてなす食事をし、ゆっくりと休息を取る時間であったはずである。また弟子たちも、疲れ果てており、ようやく家に帰って一休みしたいと思っていたその時、

    「向こう岸に渡ろう」と主イエスは言われたのだ。いくら屈強な漁師が4名いたとしても、彼らも生身の体である。お腹もグーグー鳴っていたに違いない。
     主イエスが言われた以上、彼ら弟子たちは従うほかはなく、しかたなく舟の帆先を「向こう岸」であるデカポリスの町に向けたのである。

     気象条件が良ければ、向こう岸までは20キロメートルの距離であったので、2時間くらいで目的地に到着するはずであった。それから遅い食事を取って、今日一日の疲れをいやそう、と思っていたはずである。

     しかし、予期せぬことが起こった。彼ら漁師4名が今まで体験したことのない猛烈な嵐に巻き込まれたのである。彼らは全力で、持てる力のすべてを出し切って、何とか主イエスと自分たちとを救い出すために翻弄したのである。しかし屈強な漁師たちは、ついに疲れ切った。おそらく食べ物や温かい飲み物を最後に口にしてから、一体何時間が経ったのであろうか。彼れはついに力尽きたのだ。その時、彼らの目は、この状況下でも眠っておられる主イエスに釘付けとなったのである。

     主は、起きられると、風と湖に「黙れ。静まれ。」と言われた。嵐は、主のその一言で、一瞬にして静まった。大なぎになったのだ。この時も弟子たちは休みらしき休みは取ってはいない。そして空が明るくなって来た。そう朝がやって来た。その時、彼らは目的地に着いたのである。主イエスは、眠られたが、弟子たちは誰一人眠ってはいない。皆徹夜である。

     そこで、主イエスは、レギオンを宿していた二人の男を、悪霊から解放された。するとそのうわさを聞きつけて、デカポリスの町々や村々から多くの異邦人がやって来た。彼らは感謝するどころか、主イエスにこの土地から出て行ってほしいと懇願したのである。本来ならば、主イエスも弟子たちも、そこにおいて手厚く持てなされて当然であったはずである。それにも関わらず、彼らは、約数時間の滞在にて、そこの場所を後にすることになる。

     弟子たちの疲れと空腹は、ほぼ限界近くまで達していたと思われる。仕方が無く、来た道とは言っても、舟の帆先をカペナウムへと向けたのである。
    「行きは良い良い、帰りは怖い。」と日本のことわざがあるが、「行きはへとへと、帰りもへとへと。」であった。天候は、もう安定しており、いつものコースタイム通りに、約2時間で、カペナウムに戻って来たのである。やれやれ。これで遅い朝食と、睡眠が取れそうだと、期待していた矢先のことであった。

     弟子たちの目には、大ぜいの人の群れがみもとに集まって来たのが写った。困ったぞ。主イエスと共に舟から降りようとしても、多くの人々が、我先にと言わんばかりに、舟をつけて固定する所まで、押しかけて来ていたからである。

     そして主イエスに触れようとして、待っているので、主イエスは、シモンの舟から降りることが、出来なかったのである。それで、シモンの持ち舟に乗って岸辺に、しばらく留まっていたというわけだ。

    「熱心」は素晴らしい。それはまさしく「熱意」から来るもので、その熱意は、人々に伝わり広がって行くことはまず間違いない。しかし時によっては、その「熱心」や「熱意」が暴走してしまい、コントロールされない「熱心」「熱意」は、主の働きを妨害してしまうこととなりかねない。
     この時、多くの人々は、主イエスに対する「熱意」で、主の所に来たかも知れないが、主の働きを、ミニストリーを止めてしまったのである。

     主イエスも、弟子たちも相当な疲れがたまっていた。また空腹であり、喉が渇ききっていた。しかし、その群衆の中には、本当に主の助けを必要としている人々がやって来ていたはずである。その人たちが誰であるのか、まことの神であられる主イエスは、すべてをご存知であった。それにもかかわらず、その人たちと接触を持てない状況を、熱心さのあまり、集まって来た群衆は、作り出してしまったのだ。

     いつ食事が取れるのだろうか。いつこの疲れた体を横たえることができるのだろうか。
    もしこの日本に、大リバイバルが起きたとしたら、このような状況がやって来ることは、ほぼ間違いない。

     その時に、牧師たち、牧師夫人たち、そして先に救われた信徒リーダーたちに取っては、まさしく燃え尽きてしまいやすい状況下に追い込まれることとなる。

     どんなに体力に自信がある人であっても、自分の力だけでは、限界である。そう「助け主」が必要なのだ。聖霊なるお方の力がなければ、私たちは我力で、ただ頑張るのみで、自分の命の芯を燃やして、やがては燃え尽きてしまう。
     そう。「聖霊様」が絶対条件なのである。このお方と共に歩むことこそが、いつも内面から命の泉が湧き出して、新しい油の注ぎを受けることとなる。

     この時、群衆は主イエスの働きをストップさせてしまった。私たちも一人一人、良く自分を吟味して、このようなことを起こさない為にも、日々「聖書」と共に、み言葉と共に歩むことこそが、必要不可欠なのである。
     主イエスの働きを、いつも前進させる者として、良き羊でありたいものである。
    羊飼いであられる主の為に。》

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