◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月13日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書5章24節】
5:24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
◎ショートメッセージ
『カペナウムの会堂管理人ヤイロは、主イエスに、自分の家に来ていただくことを了承してもらい、主イエスを案内始めた。もちろん弟子たちも、ついて行くこととなったわけである。
何度も言うが、弟子たちは一睡もしていない。しかも、昨日の午後に食事を取っただけである。夕日が沈み、新しい一日が始まった時には、主イエスの命令により、向こう岸に渡り、猛烈な嵐にあい、九死に一生を得て、向こう岸のデカポリスに辿り尽き、また町の人々に追い出され、カペナウムに戻って来た矢先であった。
弟子たちは、ようやくペテロの家に行って、ゆっくりできるはずであったのに、今度は会堂管理人ヤイロの家に行かなくてはならなくなってしまった。
しかも多くの群衆がイエスに触れようとしている中、主イエスだけをヤイロの家に向かわせるには、非常に心もとなく、交通整理ではなく、人の整理が必要であった。それゆえ、主イエスとヤイロと共に、付いて行かなくてはならなかったのである。おそらく十二人の弟子たちが、主イエスとヤイロの回りを、丸く囲んで、人々から守るようにして、ヤイロの家に向かったはずだ。
その間、主イエスはヤイロと、一体何が起こったのか、いろいろと細かく、十二歳になるひとり娘のことについて、話し合っていたと思われる。
主イエスとヤイロと弟子たちの一行の後に、多くの群衆がついて行こうとしていた。もちろん群衆は、主イエスが、これからどこへ行くのか知りもしない。またヤイロが、どのような人物で、また何が起こったのか、それすらも知らない。彼らの関心は、主イエスであり、主に触れることであり、主に手を置いてもらい、病をいやしてもらうこと、主に悪霊を追い出してもらうことである。もちろん彼らに取っても、それぞれの大きな問題を抱えていたゆえである。
それゆえ、群衆は主イエスに押し迫ったのだ。しかし、ここでも、主の働きを妨害しようとする心理が働いている。我先に、我先に、私が、私が、である。
主イエスは、多くの人々の病を癒やされた。そして多くの悪霊を追い出された。これまでは、たったおひとりで。しかしやがて、この権威を十二使徒たちにも、分与されることとなる。そればかりではない。その後には、十二使徒を除いた六十人以上の弟子たちにも、その権威を分与され、主の代りとして、町々に遣わされることとなるのである。
私たちは、どうしても目先の問題に目を向けやすい存在である。なぜなら、その問題に圧倒されてしまい、真理から目をそむけてしまいやすいのだ。
主イエスが宣べ伝えた「福音」とは、「神の国の訪れ」である。神の国においては、様々な障害や病気も、そして死もない。主イエスがなされた働きは、まさしく神の国の前触れである。しかし一番大切なことは、悔い改めて、主イエスを「メシヤ」として信じ、迎え入れることである。「救い」を受け入れることである。
そして、「永遠のいのち」を受け取ることである。
カペナウムにある会堂(シナゴーク)から、ヤイロの家までは、どれくらいの距離で、どのくらいの時間がかかったのであろうか。ヤイロの家はどこにあったのか。残念ながら、聖書からはそれを知ることが出来ない。また現在に、残っているのであろうか。
面白いことに、何と今でもシモン・ペテロの家の跡は残されている。またそこには、「ペテロの家」の教会が建築されている。
このように、ヤイロの家の跡に、「ヤイロの娘のよみがえり」の教会が建っていたなら、と思うのは私だけであろうか。
ヤイロは、じかに主イエスのメッセージを耳にし、そして多くの奇跡や癒しを目にした。もちろん悪霊の追い出しをも、実際に見たのである。そればかりではない。実際に、主に触れたのである。何とうらやましいことであろうか。
しかし、主イエスは、トマスに答えて言われた。
「あなたは、私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書21:29より)』
私たちは、今は主イエスをこの目で見ることは出来ない。しかしやがて、主が再臨される時、花嫁である教会を迎えに来られる時、空中において、この目で主イエスを見る時が来る。その時を待ち望みながら、日々、助け主であられる聖霊様と共に、歩んで行きたいものである。》