◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月14日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書5章25節~26節】
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
◎ショートメッセージ
『突然、舞台は一転する。ここに長血の女が登場するのである。
「長血」とは、婦人の性器からの長期間の出血のことである。旧約聖書では汚れた者と見なされていた。
レビ記には、このように記されている。
『もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。(レビ記15:25~15:27)』
新聖書辞典(いのちのことば社発行)によれば、「長血」とは、現代医学から考えられる疾患としては、子宮内の良性腫瘍(子宮筋腫,頸管ポリープ)、感染による子宮膣部びらん、膣炎、原因は不明であるがホルモン関係の異常と考えられる出血性メトロパチーなどがある。現在ではほとんど治療可能な疾患であるが、聖書の時代にこのような病気が治癒に至ることは奇蹟であろう、とのことであった。
当時のユダヤ社会においては、レビ記に書かれてあるように、彼女は汚れた存在であり、また彼女に触れただけで、その触れた者が汚れるとしたら、当然その女性は、癒やしてもらうよう、あらゆる医者にかかり、また高価な治療方法を試したに違いない。
聖書は、この女性が多くの医者からひどい目にあわされたと、書き記している。彼女に取っては、何としても癒やしてもらいたい、癒やされたいのであるから、その痛みと弱みにつけこんで、多くの医者が、彼女をだました。そして、ついに彼女は、自分の持っていた財産をすべて使い果たしたのである。と言うことは、彼女は裕福であったことが分かる。
もしかしたら未亡人であったかも知れない。その未亡人の財産につけこんで、だまし取ろうとする悪しき者は、医者に限らず、現在でも見当たるような気がしないでもない。 もし、この女性が長血を患わなければ、裕福な暮らしを続けることが出来たはずだ。しかし十二年という歳月である。彼女は、その間に何もかも失ってしまった。
もはやたよるべき財産もなく、彼女を助けてくれる人もなく、ただ残された最後の望みを託して、このカペナウムにやって来たのである。
その最後の望み、希望とは何かと言うと、主イエスのうわさである。このお方は、病を癒やされる。このお方は、不思議をなされる。このお方は悪霊を追い出される、といううわさを、主イエスの良き評判を耳にしたのである。
もしかしたら、ユダヤ人が待ち望んでいる「メシヤ」なるお方、「救い主」かも知れない。そう彼女は期待し、小さな信仰に、わらをもつかみ、このカペナウムにやって来たのである。
しかし、ここにやって来て彼女は驚いた。何と多くの群衆が主イエスを待ち望んでいたことか。主イエスに会いたいと思うのは、自分ひとりではなかった。
また主イエスのそば近くに行こうとしても、何か漁師みたいな屈強の男が十数人、主イエスの回りを囲んでいて、か細い彼女が、主イエスに近づこうとしても、多くの群衆に阻まれて、なかなか主のそばに行くことが出来ない状況なのである。
せっかくここまで来たのに。もう私には、このお方だけが最後の生きる望みだと、彼女は思って来たのに。
しかし、彼女はあきらめなかった。なぜなら彼女は、本当に命がけであったから。
そして彼女は、行動を起こした。
その続きは、明日へと続く。》