• 日々のみ言葉 2015年9月15日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月15日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章27節~29節】

    5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
    5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
    5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

    ◎ショートメッセージ

    『すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
    「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
     そこで、イエスは彼と一緒に出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
     所で、十二年の間長血をわずらっている女がいた。(マルコの福音書5:22~5:25)』

     さて昨日の続きとなる。「彼女」とは、十二年の間長血をわずらっている女性のことである。この女性は、主イエスのうわさと評判を聞きつけて、カペナウムにやって来た。 なぜ、それが分かるかと言えば、主イエスが、シモン・ペテロの家に最初に入られた時、シモン・ペテロの姑の熱病を癒やされたことがあった。そしてその後、町中の人々が、病にかかった者を連れて来て、全員が癒やされた、と書かれてあるからである。もし彼女が、カペナウムの出身であれば、すでにこの時、彼女は癒やされているはずだ。
     この長血を患った女性が、どこの出身者なのか、またその名は何であるのか、残念ながら、聖書には詳しく書かれてはいない。しかしそのことよりも、大切なことは、彼女の取った行動、そして彼女のその胸に秘めた篤き思いから、私たちは学ぶべきことが多いと言える。

     十二使徒たちは、押し迫る群衆から、会堂管理人ヤイロと主イエスを守ろうとして、回りをしっかりと固めたいたに違いない。おそらくその先頭は、シモン・ペテロであり、もしかしたらペテロは、ヤイロの家を知っていた可能性が高い。なぜなら、カペナウムに家を持つ漁師だったからである。また正統的なユダヤ人であるならば、安息日に、カペナウムが誇るユダヤ人の会堂シナゴークに、毎週家族で通っていたと思われる。当然、弟アンデレも、またゼベタイの家族も、シナゴークにて、ユダヤ人の集会を守っていた、と言っても間違いではない。その会堂の管理人のヤイロである。おそらくユダヤ人の指導的立場である者のはずだ。そうだとしたら、ヤイロの家を知っているシモン・ペテロが、主イエスとヤイロを誘導する為に、先頭に立っていたと、十分に考えられる。

     十二人の屈強な男たちが、主イエスとヤイロを囲んでいた。その回りには、押し迫る人々で溢れかえっていた。群衆の押し出す力によって、主イエスの一行が、先に進めない状況が起こった。その時である。
     彼女は、人々の足と足との間を、蹴られながらも、転びながらも、主イエスの着物めがけて、一目散に這って行ったのだ。
    「何だ。この女は。何で地面を這っているんだ。何をする気だ。」と、ののしられながらも、主イエスを目指したのだ。

    「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

     そして彼女は、主イエスの着物の端を、ついにさわったのである。さわれたのだ。
     その時、大きな奇跡が起こった。この時、何が起こったのかを知っていたのは、この女性本人と、主イエスであった。

     主イエスの着物に触れた瞬間、彼女は、大いなる力が、主イエスの着物を通して、自分の手を通して、体全体に注がれたことを感じたのである。それは、温かくて、力強い神の力であり、そう、それは疑うことなく「聖霊様」であったのである。
     彼女は、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じたのである。彼女は、十二年間、「長血」によって苦しんだ。また苦しめられて来た。しかし彼女は、ついに癒やされたのである。

     彼女の篤き思いとは、「主イエスの着物にさわることが出来れば、きっと直る。」ということであり、特に「きっと直る」という、強い信仰を持っていたことにある。

     私たちは、「直るかも知れない」あるいは「直ったら良いな」とか、思いがちである。そう、それは自分が傷つけられないように、防衛線を張っているようなものなのだ。その思いの中には、「主の御心でなければ、直らない」あるいは「直るわけがない」と言う不信仰が含まれているからである。

     私たちは、以外と主イエスに本当に期待をしているわけもなく、また信じてもいないことの方が多い。この女性は、「きっと直る」と本当に信じていたのである。主イエスを信じ切っていたのである。
     私たちは、確かに、この否定的、消極的な世の中に生かされている。いや生きて来た。しかし主イエスは違う。主イエスには、いつも「はい」すなわち英語で「イエス」。つまり肯定的、積極的なのである。十字架は-(マイナス)ではない。十字架は+(プラス)である。私たちクリスチャンのシンボルは、+(プラス)なのである。

     ヘブル人への手紙の著者は言う。

    『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:1および 11:6 )』》

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