• 日々のみ言葉 2015年9月16日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月16日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章30節~32節】

    5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
    5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
    5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

    ◎ショートメッセージ

    『彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。(マルコの福音書5:27~5:29)』

     さて、また本日も昨日の続きとなる。「彼女」とは、十二年の間長血をわずらっている女性のことである。
    「主イエスの着物にさわることが出来れば、きっと直る。」
     そして彼女は、主イエスの後ろから回り込み、ついに着物のふさをさわったのである。

     その瞬間、彼女は、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。彼女が十二年間患って来た「長血」が、ついにいやされた。

     その時である。
     主イエスが、群衆の中を振り向いて、「誰が私の着物にさわったのですか。」と言われたのだ。
     
     主イエスは、まことの人であられたが、それと同時にまことの創造主なる神であられた。主イエスは、すべてを見通され、またご存知であられた。
     
     私は、ここに主イエスの愛と優しさを痛感する。
     主イエスは、誰が自分の着物のふさにふれたのか、ご存じであるにも関わらず、あえてそれを問うておられるのである。

     主が、後ろを振り向いているので、弟子たちはこう言った。

    「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『誰が私にさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

    「弟子たちはこう言った。」とあるが、一体誰が言ったのであろうか。皆か。ルカは誰であるのか、平行記事に書き記していた。

    『イエスは、「私にさわったのは、誰ですか。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。(ルカの福音書8:45 )』

     シモン・ペテロである。しかもペテロは、主をいさめているのだ。「一体なぜ、主はこんな馬鹿なことを言われるのだ。これだけひしめき合って押していれば、誰がさわろうと、わかるはずがないじゃないか。」と、人間の浅はかな知恵で、主をいさめたのである。

     すると主イエスは、ペテロにこう教えるである。ここにも主イエスの暖かさと優しさを、私は感じるのである。ルカによる平行記事の続きによると。

    『しかし、イエスは、「誰かが、私にさわったのです。私から力が出て行くのを感じたのだから。」と言われた。(ルカの福音書8:46 )』

     また、この言葉は、「長血」からいやされた女性へのメッセージでもある。
     主イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。どこに隠れているのかも、すべて知っておられるのに、である。

     ここでいったい何を、主イエスは、私たちに教えようとされているのか。

     主イエスは、その女性とは、大きな関わりがあった。それは創造主であるということ、そして、その女性の「いやし主」であること。「主」であり、「神」であること。

     たとえば、私が、主イエスの御名によって、ある人の為に「執りなしの祈り」を主に捧げたとする。偉大なる主は、愛のお方であるゆえ、その祈りと願いに応えてくださる。素晴らしいのは、祈りを聞いてくださる主ご自身にある。そして、その「ある人」に、大きな御わざが起こった。その人の願いが聞きいれられた。主イエスが、その人に働きかけてくださったとする。
     しかし、大きな祝福をいただいたその人は、その人にとって主イエスが、いったいどのような関係、つまり関わりがあったのかいうことを、わかっていない、いやわからない場合が多い。
     その人自身が知る必要があるにも関わらず、その人は、「祈ってもらった人」に目が行き、祈りに答えてくださった主イエスには目が向かない、いや目を向けようとはしない。
     主イエスの方から、その人に関わりを持ってくださったにもかかわらず、自分はイエスとは、何の関わりもない、という人が存在するということである。
     当然、そのような人は、感謝をしない。感謝を捧げることができない。
     たとえ、どのような素晴らしいものが、その人に与えられたとしても、感謝をすることが出来ない。やがてその人がすることは、また同じように不平不満である。いつでも文句ばかりである。

     ここで、主イエスは、「長血」からいやされた女性に、「あなたに取って私は何なのか。あなたにとって私は誰なのか。」と、問うておられるのである。

     『クリスチャン』

     主イエスを信じ、主イエスに似た者となるように、聖霊なるお方によって、日々造りかえられている存在である私たち。
     その主であるお方は、私たち、クリスチャンにも、日々問われるのである。

    「あなたに取って私は何なのですか。あなたにとって私は誰なのですか。」

     イエス様。あなたが私の主です。私が私の主ではなく、あなただけが私の主なのです。》

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