• 2023年11月26日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書3章7節~14節】(新約聖書p.113下段右側)
    3:7 ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
    3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
    3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」
    3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
    3:11 ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」
    3:12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
    3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」
    3:14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

    ◎メッセージ【バプテスマのヨハネの教え】
    《ルカは、バプテスマのヨハネについて、一番多く紙面を割いています。今日は、その教えについて、共に考えて見たいと思います。
     まず、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に、非常に厳しい言葉で、ヨハネは呼びかけています。
    「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」
     ヨハネが言った「まむし」とは、創世記に登場する「蛇」であることは言うまでもありません。かつて、私たちも「まむしの子孫たち」でした。使徒パウロはこのように述べています。
    『さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちも皆、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』と。
     次ぎに、「だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」とヨハネは命じています。
     ここで、ヨハネは、罪に対する裁きがあることを、明らかにしています。私たち人間は、一度死ぬことと、死後に裁きがあることを知っています。なぜなら、聖書がそう言っているからです。しかし、神様は逃れの道を用意しておられました。それが、主イエス様なのです。
     「悔い改めの実」とは、ただ単に口で「悔い改めます」と言うだけではなく、行ないによって、自分が悔い改めたことを明らかにすることです。その決意表明として、ヨハネのバプテスマがあるのです。
    「『われわれの父はアブラハムだ』とは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人は、神様が選ばれた選民です。アブラハムの子孫であり、契約の民なのです。
     しかし、ヨハネは、あえてそれを否定しています。つまり、「アブラハムの子孫であるから自分たちは裁きを免れることはありえない」ことを明確にしているのです。しかし、そうであっても、彼らが選民であることは、永遠に変わらないのです。
     さて、群衆は、ヨハネの言葉に心を刺し通されます。
    「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
     この質問に対して、ヨハネは、どうしたら、「悔い改めの実」を結ぶことが出来るのか、具体的に教えています。彼らが、この教えに聞き従ったとしたら、まさしく「悔い改めの実」である「良い実」を結ぶことになるかと思われます。
     さて、この教えは、彼らだけでなく、私たちに対しても語られています。それは、「良い実を結ばない木になってはならない」と言うことです。
     主イエス様は弟子たちに、ご自身が「ぶどうの木」と言う「たとえ」を話され教えられました。
    「私はぶどうの木、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。私にとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」』と。
     私たちも、「救われいるからもう大丈夫」と、安易に安心することではなく、何時いかなる時も、主イエス様の愛とみ言葉に留まり、聖霊様と共に歩むことを、常に心掛けなくてはなりません。なぜなら、私たちのゴールは、この世には無く、主イエス様にお会いし、御国に上ることなのですから。》

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