◇◆◇日々のみ言葉
2024年1月2日(火)
◎聖書箇所【ヨハネの福音書20章19節~22節】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。
初夢は、いかがでしたか。神様は夢をも用いられます。しかし、常にみ言葉による「裏付け」は必ず必要です。聖書に勝る権威は何一つないからです。
さて、主のこの言葉を聞いたのは、誰でしたか。トマスはいませんでしたが、十人の使徒と、主に従って来た女たちではないですか。もちろん、他にも弟子たちがいたはずです。
この時、彼らの心の状態はどのようであったのでしょうか。ユダヤ人たちを恐れ、震えおののいていたのです。
しかし、シモン・ペテロはすでによみがえらた主イエス様にお会いしていたはずです。また、ヨハネも「主の復活」を信じたはずです。また、マグダラのマリアを始め、墓に出向いた他の女たちも、すでに主にお会いしていたはずなのです。
それなのに、なぜ彼らはユダヤ人たちを恐れていたのでしょうか。主イエスがよみがえられたことが、真実であり事実であったことを知っていたのにもかかわらずに。
これが、私たちなのです。私たちは、恐れるのです。それだからこそ、主は現われて下さり、言われたのです。
「平安があなたがたにあるように。」
しかし、どうしたら主が言われる「平安」を持つことが出来るのでしょうか。その答えが、主が次ぎに言われたことなのです。
「聖霊を受けなさい。」
この時、まだ聖霊は降ってはおられません。しかし、主は彼らに聖霊の満たしを与えられました。その時点では、神様が望まれる者にだけ聖霊の満たしが与えられたのです。
しかし、ペンテコステ以降は違います。主イエスを信じ受け入れ、神の子とされた者ならば、誰であっても聖霊が、その人の内側に住んで下さいます。
聖霊は、主イエス様の霊でもあられます。創造主なるお方が、私やあなたと共にいて下さるとしたら、どうして私たちは恐れる必要があると言うのでしょう、
しかし、それでも私たちは恐れるのです。「恐れてはならない」これは、命令形で書かれています。信仰こそが答えです。全き平安は、信仰によってのみ与えられるのです。》