◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月19日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書5章35節~36節】
5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
◎ショートメッセージ
『すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。(マルコの福音書5:22~5:24)』
この後、主イエスは急いで、ヤイロと共に、ヤイロの家に向かったはずである。十二使徒たちは、主イエスとヤイロの回りを守るように囲みながら、シモン・ペテロが誘導して行ったと思われる。
しかし、途中で群衆に囲まれてしまい身動きが出来なくなったしまった。その時に、十二年「長血」をわずらっていた女性が、主イエスの着物のふさを後ろからさわり、いやされるという奇跡が起こった。
一刻をあらそう会堂管理者のヤイロに取っては、この時ほど数分がまるで数時間のように感じられたであろう。
主イエスと、いやされた女性が話をされていた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
この時である。このタイミングである。ヤイロの所へ、おそらく友人か親戚の者が来てこう言ったのだ。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
この時のヤイロの気持ちは、どうであっただろうか。
「間に合わなかった。これもこの女が、イエス様の着物をさわったりするから、こうなったのだ。イエス様もイエス様だ。なぜこの女と話したりしているんだ。だから間に合わなかったのだ。私の可愛い一人娘は死んでしまった。これもこの女のせいだ。イエス様のせいだ。イエス様が、こんな女をほうっておいて、私の家に来てくださえすれば、娘は助かったのに。」
と、このように考えるのが、まったく普通であるだろう。
主イエスは、そんなヤイロの気持ちを、心の中にある恐れを、瞬間的にすべて悟られた。
それゆえ、
「恐れないで、ただ信じていなさい。」と、言われたのである。
ルカは、平行記事として、このように主イエスの言葉を書き記している。
「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘は直ります。(別訳「救われます」)
確かに現代の発展した医学であってさえも、人は死んでしまったのなら、もう助けることは出来ない。死んだ人を生き返らせることは、簡単には出来ない。
しかし主イエスは、人であって人ではない。主イエスは、神の御子であられる。創造主なるお方である。造り主にとって、ご自身が造られたものを、直すことは簡単である。
私たちは、やはり恐れる者なのだ。信じることより、恐れることの方が多い者なのである。それゆえ主イエスは、言われるのである。「恐れるな。」
父親であるヤイロが、「恐れない」「信じ続ける」これが、一人娘がいやされる、あるいは救われる条件だと、主イエスは言われるのである。
ヘブル人への手紙の著者は言う。
『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人の手紙10:35~10:39)』
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人の手紙11:6)』
「恐れないで、ただ信じていなさい。」》