• 日々のみ言葉 2015年9月18日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月18日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書5章34節】

    5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

    ◎ショートメッセージ

    『何と言う愛と優しさに満ちあふれた言葉であろうか。
     この時の主の眼差しと、み顔はどのようであったであろうか。もちろん私たちには、ただ想像することしかできないが。

     「天国は、ほんとうにある(青志社)」という映画化された本によれば、主の瞳は、透き通っていて、とてもきれいだそうだ。そして、いつも微笑んでおられるとのこと。
     私も、早くこの目でじかに主イエスのみ顔を見たいものである。

     おそらく、この時にも、主イエスは、「長血」をいやされた女性に、微笑まれて言われたに違いない。
     まず、呼び名が素敵である。「娘よ」である。
    この女性は、多くの悪い医者にだまされて、自分の財産を使い果たしてしまった、とある。また十二年も、「長血」をわずらっていたのであるから、少なくともうら若き乙女ではないはずだ。「自分の財産」という言葉から、未亡人であった可能性は高い。なぜなら当時のユダヤでは、未亡人の財産を食い物にしていた悪い人々がいたからである。

    『「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。
    また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(ルカの福音書20:46~20:47)』

     これは、主イエスが言われた言葉である。何と律法学者が、「やもめ(未亡人)の家を食いつぶす。」、と言われるのだ。
     これはどういうことかと言うと、学者たちは人々から尊敬されていることを悪用して、やもめの家からも経済的援助を要求し、かもにしていた者たちが存在したということである。律法学者がそんなおいしいことをするのなら、医者たちも同じように、やもめの家を食いつぶす者たちがいてもおかしくはない。

     そうだとしたら、もしかしたら主イエスよりも年上の女性であった可能性が高い。この時、主は三十才くらいであった。その若き青年である主イエスが、彼女に「娘よ。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われたのである。

     主イエスは、創造主なるお方である。主イエスにとっては、誰であっても男性は「息子」であり、女性は「娘」なのだ。

     そして、主はもう一言、大切なことを言われた。
    「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」

     これこそが、今回の奇跡的ないやしにおける最大の教えであり、学びである。

     いやされたのは誰であろうか。もちろん「いやし主」である主イエスであられる。
     それにも関わらず、なぜ主イエスは、「あなたの信仰があなたを直した」と言われたのか。実は、同じように主イエスが言われたことがあった。この時は、主の公生涯最後の方での出来事、すなわち十字架に架かられるまで、あと十数日を残すのみの時である。

     ルカによれば、

    『イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
     彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
     イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
     イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(ルカの福音書18:35~18:43)』

     ここでも主イエスは、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われている。
    と、言うことは、共通する大切な真理があることを、私たちに教えている。

     それは、主イエスに対する、全き信頼と言える。このお方こそ、まことの神の御子、メシヤでありキリスト。人類の救い主であられるこのお方を、本当に、心の奥底から信頼し、信じているかどうか、を問われているのだ。

     長血をわずらった女性も、エリコの門にすわっていた盲人の物乞いも、本当に全身全霊を持って、主イエスを信じ、信頼し、主イエスだけに、望みと希望を抱き、行動した。

     人は、順風満帆の時には、主イエスに対する信頼と信仰は、それなりにあるかも知れない。しかし、その人の信仰の真価が問われるのは、試練の時である。試練の時に、私たちの主に対する全き信頼と信仰が、さらけ出されるのだ。

     私たちは、今どのくらい主イエスを信じ、信頼しているのであろうか。100%の信頼と信仰を、持ち合わせていると言えるだろうか。》

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