• 2024年5月26日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2024年5月26日 第四主日礼拝メッセージ
    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書5章12節~16節】(新約聖書p.118上段左側)
    5:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
    5:13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
    5:14 イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
    5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。
    5:16 だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。

    ◎メッセージ【主イエスのお心】
    《またルカに戻ります。さて、「ある町」とは、さだかではありませんが、ガリラヤ湖半の町であることには間違いありません。なぜなら、この時期の主イエスは、カペナウムのシモン・ペテロの家を中心として、宣教活動を行なわれていたからです。この奇跡の後、シモンの家における「中風の人」のいやしの奇跡が書き記されていることからも、それが分かります。
    新改訳2017版は、「ツァラアト(ヘブル語)」となっていますが、新改訳旧版は、「らい病」と訳されていました。
    ギリシャ原語は「レプラ」であって、「ハンセン氏病」のことを指しています。ただし、聖書の中には、そうとは言えない場合も含まれており、よって、皮膚病全般や、家のカビなどにも、同じ原語が用いられ、具体的に何を指しているのか、断定出来ないことも事実です。
    しかし、聖書を一人で翻訳された尾山令仁先生によりますと、明らかに、「ライ病」である場合が、三箇所あるとのことです。
    一つが、「将軍ナアマン」の癒しです。もう一つが、主が癒された「十人のライ病人」であり、そして、もう一つが、本日の聖書箇所の場面となります。
    「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
    なぜ彼はこんな言い方をしたかと言いますと、当時のユダヤにおいては、「ライ病」は、罪を犯した者に対する神様の裁きであったと考えられていたからです。そのことが、「民数記」に書き記されています。
    それによりますと、ミリアムとアロンが、モーセを非難したことから、神様の怒りに触れ、神様は、ミリアムをツァラアトにされたのです。しかし、モーセの取りなしによって、彼女は癒されますが、七日間、宿営の外に締め出されました。ここから、七日間という見極めの期間が示されたのです。
    「私の心だ。きよくなれ」
    この言葉にこそ、主イエスの深い愛が感じられます。主のお心はいやされることです。すると、すぐにツァラアトが消えて、彼は癒やされました。主は、彼に命じられます。
    「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しの為、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」と。
    これは、レビ記14章に書かれています。主は、すべての律法を守られる為に来られました。なぜなら、この律法を定められたのは、主ご自身であるからです。
    主イエスは、「だれにも話してはいけない」と言われましたが、これは、まず祭司に見せることが先決であって、律法に適ったことであること、また、彼が証しすることによって、ご自身の働きが妨げられるおそれがあったからです。
    しかし彼は喜びの余り、人々に話してしまい、その結果、多くの群衆が駆けつけ、主は一人寂しい所へ退かなければならなくなりました。ここにも、主の言葉に従うことの大切さが教えられています。
    主イエスは、公生涯において、多くの人々を癒され、また悪霊から解放しました。そして、その働きを十二使徒たちに委ねられたのです。ペテロは、次のように証ししています。
    『キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。』と。
    主イエスの御心は、誰もが皆、健やかで、寿命を全うすることです。また、ご自身を心から信じて、「永遠の命」をいただくことなのです。
    『神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
    これが、神の御心であり、主イエスの御心なのです。》

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