• 日々のみ言葉 2015年10月1日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月1日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章12節~13節】

    6:12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
    6:13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

    ◎ショートメッセージ

    《マタイは、平行記事として、このように書き記している。
    『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
    さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(マタイの福音書10:1~10:4)』

     主イエスは、2人ずつ、合計6チームに使徒たちを分けて、ユダヤ人の所に遣わしたのである。マタイは、ここで十二使徒の名前をあげ、誰と誰とが組んだのかを書き記しているが、この分け方の記述には、疑問が残る。なぜなら、後半において、主は最後の過ぎ越しの食事の時、ペテロとヨハネを遣わすからである。

    『さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「私たちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」(ルカの福音書22:7~22:8)』

     そればかりではない。エルサレム初代教会が、サマリヤの町に遣わすのは、ペテロとヨハネである。

    『さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所へ遣わした。(使徒の働き8:14)』

     ピリポとバルトロマイ(ナタナエルの別名と理解されている)は、親友であるので理解できる。マタイ(レビ)と、アルパヨの子ヤコブは兄弟である可能性が高い。もしペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネとを組ませるのならば、主はマタイとアルパヨの子ヤコブとを組ませるはずである。もちろん私がここで言うのは、あくまで推測であるが。

     さて、十二使徒は、主イエスの多くの人々へのいやし、そして悪霊追い出しを見て来たはずである。その時、彼らは思ったはずである。いや思わないはずはない。人間ならば、誰でもそう思うことになる。すなわち、自分たちも主イエスのなされるみわざが出来たら、どんなに素晴らしいかと。そして、自分たちもやって見たいと。

     そして、本当にその時がやって来たのである。
    マタイは、平行記事として、このように主イエスの言葉を書き記している。

    『イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10:5~10:8)』

     この時、弟子たちは、主イエスが、ヤイロのひとり娘を生き返らせたことしか知らない。しかも、それを目の当たりに見ていたのは、ペテロとヤコブとヨハネの3人の弟子たちだけである。
     それにもかかわらず、主イエスは、ここでは「死人を生き返らせなさい。」と言われたのだ。

     こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

     おそらく、主イエスの言葉に聞き従い、主イエスを信じ、信頼した彼らは、死人を生き返らせたに違いない。もしそんなことがなければ、どうして主イエスは、「死人を生き返らせよ。」と言われるのであろうか。

     私たちは、「使徒の働き」において、ペテロが「ドルカス」を、パウロが「ユテコ」を生き返らせたことを知っている。

     この時弟子たちは、悔い改めを説き、多くの人々をいやし、多くの悪霊を追い出し、そして死人を生き返らせたのだ。しかも主イエスに代わってである。何と畏れ多きことであろうか。この時代は、もう終わってしまったのであろうか。新約聖書が完結した今は、もうこのような奇蹟やしるしや不思議は、すべてすたれてしまったのだろうか。

     そんなことは、聖書のどこにも書かれてはいない。主イエスを信じ、信頼し、従う者は、今でも主イエスの弟子である。そして弟子だとしたら、この時の十二使徒と同じように、主の命じられたことが、私たちにも出来るのではないだろうか。いや出来るはずである。なぜなら、主イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じであられるからだ。》

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