◇◆◇日々のみ言葉
2015年9月30日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章10節~11節】
6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
◎ショートメッセージ
《マタイは、平行記事として、こう書き記している。
『イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイの福音書10:5~10:15 )』
ここからも分かるように、主イエスは十二使徒を「イスラエルの家」すなわち、ユダヤ人に遣わしたのである。当時のユダヤ人の世界では、旅人をもてなすことが美徳とされ、またそのような風習があった。これは創世記18章における、アブラハムの行ないから来るものである。
『主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」
彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」(創世記18:1~18:5 )』
ただ、いかに当時の風習とは言え、同じ家に1・2泊するのは良いが、3日以上宿泊することは、偽教師と言われたようである。
しかし主イエスは、当時の常識に反して、「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」と言われるのである。
その町において、最初に弟子たちを受け入れて家を祝福せよ、と言うことである。また、この言葉は預言をも含んでおり、主はそのような家を、すでに弟子たちに、用意しておられるということである。
クリスチャンには、偶然に起きることは何一つない。すべてが必然であり、しかもそれは皆、神の御手の中にあることである。悪魔や悪霊は、神の許しがない限り、私たちに手出しすることは出来ない。このことを、私たちはしっかりと肝に銘じておくべきである。
さて、ユダヤ人の当時の風習には、異邦人の地から帰って来た時には、足のちりを払い落として、異邦人の罪、汚れを自分たちの地に持ち込まないようにしたものであった。ユダヤ人であっても、神のもとに帰ろうとしないのなら、それは異邦人と同じであると言うわけである。
そのような町、そのような家に対して、主イエスは厳しくこう言われるのである。
「まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」
もし、この言葉が真実であるとしたら、日本の多くの町々や、家々に対する神の裁きはいかほどのものであろうか。しかし、主は必ず、この日本を、そして日本人を、もう一度顧みてくださると、私は信じる者である。
日本に大リバイバルは、必ずやって来る。そして日本が変えられた後、主イエスが「教会」と言う花嫁を迎える日が訪れる。私たちは、主イエスに、空中にてお会いするのだ。そして、この目で主イエスご自身を見、この耳で主イエスの声をじかに聞き、主イエスに触れられるのである。》