• 日々のみ言葉 2015年9月29日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年9月29日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章8節~9節】

    6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
    6:9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

    ◎ショートメッセージ
    《主イエスは、十二使徒たちを、実戦訓練に遣わした。その時、2人ずつのチームを6チームに分けられた。ここから、伝道あるいは宣教に行くためには、現在においても、2人によるチームが必要であることを教えられている。
     その最小限は、宣教師夫婦による派遣であるが、むしろ複数の宣教師夫婦を送られた方が、より効果的であるとも言える。
     私たち夫婦が洗礼を受けた最初の教会の教団は、終戦後アメリカから2組の若い宣教師夫婦による合計4名のチームによって始まったとされている。その種が、今や日本全国に蒔かれ、発芽し、ひとつの大きな教団を組織するまでとなった。主のみわざは、ほむべきかな。
     
     さて、主イエスは、十二使徒を派遣する時に、このように命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

     これは、かなり無理矢理な命令である。杖一本のほかは、何も持って行ってはいけないと言われるのだ。私たちが旅をする時には、それこそクレジットカード一枚を持って行けば良いと言う、いくら便利な時代になったとは言え、やはり必要最小限の物は持って行かなければならないのが普通であり常識である。

     十二使徒が遣わされた時は、今からほぼ二千年ほども前である。確かに、当時のユダヤの国においては、旅人を持てなすことが美徳とされていたし、またそのような文化背景であったことは事実である。それにしてもパンも、袋も、金も、二枚の下着も持って行ってはいけないとは言うのは、どう考えても無謀であり、冒険であり、また非常識でもある。なぜ、主イエスは、あえてそのようなことを命じられたのであろうか。

     主イエスは、「それらの物はすべて与えられる。」と言われるのだ。

     マタイは、『山上の垂訓』における主イエスの言葉をこのように書き記している。

    『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
     空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
     あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
     なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
     しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
     きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
     そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
     こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
     だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイの福音書6:25~6:34 )』

     もちろん、十二使徒たちは、主イエスの言葉を、信じて出て行ったのだ。主イエスは、十二使徒たちに、悪霊を追い出す権威だけでなく、病人をいやし、死人を生き返らせる権威をも与えられた。そのことについては、次回に学んで見たいと思う。

     今日のメッセージの中心は、弟子たちは、主イエスの言われた通りに従い、そして主イエスの語られた言葉を信じて、出て行ったことにある。
     この時の弟子たちのように、私たちは、本当に主イエスに従っているだろうか、主イエスの語られた言葉、すなわち「神の言葉」を信じているだろうか。》

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