• 日々のみ言葉 2015年10月2日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月2日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章14節~16節】

    6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていた。
    6:15 別の人々は、「彼はエリヤだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」と言っていた。
    6:16 しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていた。

    ◎ショートメッセージ

    《主イエスの名声は、とどまることを知らず、ユダヤ中に、そしてその首都エルサレムはもちろんのこと、特に当時ローマ帝国皇帝カイザルによって、暫定的にユダヤの王として君臨していた、ヘロデ王の耳にもはいったのだ。

     しかし、ヘロデ王は、なかなか主イエスに出会うことはなかった。このヘロデ王が、救い主であり、「メシヤ」なる主イエス・キリストにお会いできる時は、何と主イエスが十字架に架けられる数時間前なのである。

     『一期一会』という言葉があるが、まさにその通りのことが神の摂理によって起きたのだ。

    『それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。
     ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
     それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。
     ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。(ルカの福音書23:6~23:11)』

     父なる神は、ご自身のひとり子、すなわち「神の御子」なるイエスを、「ユダヤの王」とは言っても、ユダヤ人ではなくイドマヤ人(エドム人)であるヘロデに、会わせられた。この時こそが、ヘロデに取って、最後の救いの時であったのである。神が、「ユダヤの王」の前に、来てくださったのだ。まさしく一期一会なのだ。
     しかし、この時のヘロデの取った行動は、愚か者」の何者でもない。

     主イエスの名声がヘロデの耳に届いたことを、マルコはここに挿入した。特に不思議なことは、ここに書かれている内容である。
     つまり、ヘロデ王が語ったこと、そして他の人々が語ったことが書かれているのである。

     人々は、
    「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」
    「彼はエリヤだ。」
    「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」

     そしてヘロデは、
    「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」

     この人々とは、誰であろうか。文脈からすれば、宮殿の人々である。
     ではマルコは、この人々の言葉や、ヘロデの語った言葉を誰から聞いたのであろうか。 
     一般の者が、ヘロデの宮殿に入ることは、よほどのことがない限り不可能である。ましてや王の語った言葉を聞くことができる者だとしたら、それこそ限られた者でしかない。すなわち側近の者か、王に側近く仕える使用人たちだけである。
     また主イエスが、最初で最後にヘロデ王と会う場面も、誰かが見ていたに違いない。

     つまり、そのような立場あるいは地位に、救われてクリスチャンとなった人物が存在すると言うことである。しかも、その者は、かなりの長い期間、宮殿に勤めていたとしか考えられないことになるのだ。

     神の摂理は、私たちが到底およばないほどに、深く、また不思議である。すでに、様々なことが、神の中においてご計画され、すべてが、そのご計画の通りに進み、そして成就して行く。

     神は、いつも先回りされておられる。私たちは、私たち自身に立てられている神の計画の全貌を知ることが出来ない。いつも目先の物しか見ることが出来ない存在なのだ。 
     しかし主イエスは違う。主イエスは、すでにゴールさえも、またそこに至る道も、すでにご存知であられる。たとえ私たちの道が迷路のようであったとしても、主イエスは正しい道を知っておられるのである。

     現在の自動車のナビは、以前にくらべてかなり高精度になった。しかし、それでも時々間違うことがある。だが、私たちクリスチャンに与えらている「聖書」というナビは、必ず主イエスという目的地に、到達させてくれるのである。私たちクリスチャンの人生のナビの矢印は、いつも十字架を指している。

     人々は言った。
    「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」
    「彼はエリヤだ。」
    「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」

     私たちは、イエスがどなたであるのかを知っている。このお方こそ、天地創造された神様ご自身であられる。》

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