◇◆◇日々のみ言葉
2024年11月8日(金)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙11章27節~30節】
11:27 したがって、パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。
◎ショートメッセージ
《一昨日および昨日と同じ箇所からとなります。再三ですが、現代訳を掲載します。
『11:27 そういうわけで、この聖餐式に臨むのに、罪を犯したままであるならば、主の体と血を冒瀆することになる。
11:28 そこで、一人一人自分を反省し罪の赦しいただいてから聖餐にあずかるべきである。
11:29 聖餐にあずかる時、それが、キリストの祝福にあずかるのだということをよく考えないでいる人は、神の裁きを受けることになる。
11:30 あなたがたの中に弱い者や病人がたくさんいたり、また、死んだ者が大勢いるのは、そのためである。』
聖餐式は、単なる行事ではありません。まさに礼典なのです。霊的世界に影響を及ぼすものであると確信しています。
私たちクリスチャンだけが、聖餐式に、その礼典に預かることが許されています。よく、クリスチャンとノン・クリスチャンの区別なく、礼拝に参加する人なら誰でも聖餐に預かれる礼拝があるとしたら、パウロがここで示していることが起こりかねないのです。すなわち、「その飲み食いが自分をさばく」のであり、「神の裁きをうけることになる」ことです。
そして、さらにパウロは、続けています。
『そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。』と。これは、恐ろしいことです。祝福の源が呪いとなってしまうからです。
最後の晩餐において、イスカリオテのユダは、この聖餐の恵みには預からなかったと考える学者が多くいます。私の師である尾山令仁先生もその解釈でした。聖餐式は、本物の主にある兄弟姉妹だけが授かることの出来る神様の祝福なのです。》