◇◆◇日々のみ言葉
2024年11月9日(土)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙11章27節~30節】
11:27 したがって、パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
◎ショートメッセージ
《引き続き同じ箇所からとなります。再度となりますが、現代訳を掲載します。
『11:27 そういうわけで、この聖餐式に臨むのに、罪を犯したままであるならば、主の体と血を冒瀆することになる。
11:28 そこで、一人一人自分を反省し罪の赦しいただいてから聖餐にあずかるべきである。
11:29 聖餐にあずかる時、それが、キリストの祝福にあずかるのだということをよく考えないでいる人は、神の裁きを受けることになる。
11:30 あなたがたの中に弱い者や病人がたくさんいたり、また、死んだ者が大勢いるのは、そのためである。』
今日は、「幼児洗礼」について考えてみましょう。私は、プロテスタント教会については、その全貌を知りませんが、カトリック教会においては、「幼児洗礼」が行なわれます。そして、それが洗礼として認められ受け入れられていることを聞いたことがあります。
生まれてから何日目かして、両親に教会に連れて来られ、司祭により洗礼を授かるのです。確かに、神様に生まれた子を捧げる行為としては、祝福があるかも知れませんが、そのことによって、クリスチャンとなり救われたわけではありません。
救いは、個人的なことだからです。救いとは、その人の人格と救い主であられる主イエス・キリストの人格との交わりであり、触れあいなのです。つまり、真の神様に出会うことなのです。
また、両親がクリスチャンであって、二代目、三代目のクリスチャンとして、生まれる前から教会に通い続けていても、その人が、主イエス様に出会っていることにはならないのです。何度も言いますが、救いは個人的なことだからです。
聖餐式に、両親がクリスチャンの子どもたちに、特に小学生以下の子どもたちに、教会学校に通っているからといって、聖餐式を受けさせることは、私は好ましくは思っていません。やはり、幼いながらも信仰告白をして、洗礼を受けてから、聖餐式を受けるべきなのです。
私たちも、教会の礼拝においてプログラムだから、あるいは慣習だからと言って、軽い気持ちで受けるのではなく、主イエス様と霊肉と共に交わりの一時であることを思って、厳粛な気持ちで聖餐を受けようではありませんか。》