• 2024年12月8日第Ⅱアドベント礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書7章40節~50節】(新約聖書p.126上段真中)
    7:40 するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
    7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
    7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
    7:43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
    7:44 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。私があなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙で私の足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
    7:45 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、私が入って来たときから、私の足に口づけしてやめませんでした。
    7:46 あなたは私の頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、私の足に香油を塗ってくれました。
    7:47 ですから、私はあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
    7:48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
    7:49 すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
    7:50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

    ◎メッセージ【罪赦されることとは?】
    《「シモン、あなたに言いたいことがあります。」
    「先生、お話し下さい。」
    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
    一デナリは、当時の労働者が朝から夕方まで、一日働いて得ることが出来る賃金を指しています。よって、五百デナリは500日分の給料、五十デナリは50日分の給料と言うことです。
    「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います。」
    「あなたの判断は正しい。」
    この後、主は「たとえの解き明かし」を、シモンに話されます。しかし、彼だけではありません。主の足に香油を塗った女の為にも、そして弟子たちの為にも主は話されたのです。
    「私があなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙で私の足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、私が入って来たときから、私の足に口づけしてやめませんでした。あなたは私の頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、私の足に香油を塗ってくれました。」
    当時のイスラエルでは、招いた客人が到着した時には、僕を使わし足を洗うことが、風習であり礼儀でした。実は、ここにも、主が最後の晩餐にて、弟子たちの足を洗うことになる、予表となっています。
    次に口づけですが、親しい友には、お互いに頬に口づけをしたようです。このことも、イスカリオテのユダが口づけによって、裏切ることになる予表になっています。
    そして、「私の頭にオリーブ油」を塗ることは、敬意を表わすしるしでもありました。このことも、ベタニアのマリアによって、「ナルドの香油」を注がれることの予表になっています。
    「ですから、私はあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
    さて、私たちは、どちらの立場なのでしょうか。この罪深い女と同じ立場であり、心から主に感謝を捧げる者ではないのでしょうか。
    それとも、パリサイ人シモンのように、赦されることの少ない者であり、愛することの少ない者なのでしょうか。この時、シモンは分かったはずです。自分が後者であることをです。
    罪赦されることとは、どのようなことなのでしょうか。それは、自分が罪人であることを、真に認識しなければ分からないことなのです。
    多くの人々は、このパリサイ人シモンのように、自分は、それほど罪を犯していないという自負があるのです。しかし、パウロは言いました。「私は罪人の頭」だと。罪を自覚しなければ、主イエス様の十字架も分からないのです。そして、十字架の素晴らしさもです。
    さて、主は彼女に言われます。
    「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と。
    この言葉こそ、私たちにも語られている言葉です。主は、最後の晩餐において、弟子たちに、そして私たちに約束されました。
    『「私はあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」』と。》

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