• 2025年2月2日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2025年2月2日 第一主日礼拝メッセージ
    ※本日の聖書箇所(ヨハネの福音書20章19節~29節)新約p.228上段左側
    20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
    20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
    20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。」
    20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
    20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
    20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
    20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
    20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
    20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
    20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
    20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

    ◎メッセージ【平安があなたがたにあるように】
    《今回は特別にヨハネの福音書からの学びとなります。
    「その日、週の初めの日とは、主イエスが十字架に掛けられた日から数えて三日目の日曜日のことです。ヨハネ・マルコの家の二階に弟子たちは集まっていました。しかも、ユダヤ人を恐れて、入り口の戸に鍵がかけられていたのです。この時、すでに主イエスがよみがえられたことは、伝えられています。そんな時のことです。突然主イエスが彼らの真ん中に立たれたのです。当然、彼らは、幻か幽霊かと思ったに違いありません。
    「平安があなたがたにあるように。」
    主は彼らの恐れと不安を取り除く為に、ご自身の手と脇腹を示されたのです。
    「平安があなたがたにあるように。」
    主は、十字架に掛けられる前に、三度「受難予告」をされました。しかも最後には、三日目によみがえることを必ず言われたのです。しかし、それでも弟子たちは信じようとはしませんでした。この時、弟子たちは不信仰の罪を示されたのです。
    そして、「父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。」と言われます。これは使徒職の再任命のことです。
    「聖霊を受けなさい。」
    これは預言です。五旬節において、そのことは成就します。
    「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
    弟子たちには、赦せない多くの者がいました。その筆頭が主を裏切ったイスカリオテのユダ、大祭司カヤパとアンナス、そして十字架刑を命じ執行したポンテオ・ピラトのことです。
    「その人たちの罪を赦しなさい」と言われたのです。
    私たちの心の問題の多くは、これです。つまり、心の中に「赦していない人」がいるのです。その人を赦すことによって、解放されるのは自分自身です。赦さなければ、その人の心の中に、罪がずっと留まることになります。
    さて、この時、十二弟子の一人であるデドモと呼ばれるトマスはその場には居合わせませんでした。弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と証ししたのですが、トマスは、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。
    それから弟子たちは、何とかトマスを説得して、「ガリラヤに行きなさい」という主の命令を実行しようとしますが、誰もトマスを説得出来ませんでした。すると、一週間前と同じように、主イエスが来られたです。
    「平安があなたがたにあるように。あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」
    主イエスでなければ解決出来ない問題があるのです。そして、その時は、遅くもなく早くもなく、絶妙のタイミングで、主が来て下さるのです。
    さて、主は三回、「平安があなたがたにあるように」と言われました。この「平安」とは、この世が与えるものではなく、「神様が常に共にいて下さる」と言う約束から来るものなのです。私たちは、真の平安を持っているのです。》

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