• 日々のみ言葉 2015年10月28日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月28日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章13節】

    7:13 「こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

    ◎ショートメッセージ

    《『主イエスが言われる「あなたがた」とは、パリサイ人と律法学者のことである。

     主イエスの時代、当時のユダヤは、祭司長の属するサドカイ人と、パリサイ人、律法学者によって指導されていた。
     パリサイ人とは、パリサイ派に属する者のことである。意味は「分離された者」。パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある。彼らは律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとした。そして第2の特徴は、その聖書解釈にある。それは「昔の先祖たちの言い伝えに従う」解釈である。これに対し、サドカイ派は律法を文字通りに読んで理解する方法に従ったのに対し、パリサイ派は伝統の積み重ねによる解釈を重視したのである。

     律法学者は律法を解釈し、教え、民衆に生活の規範を与えた。彼らは、学校やシナゴーグ(会堂)、またはそれぞれの家庭で弟子を教育した。
     主イエスの時代、サドカイ派とパリサイ派の分立により、律法学者はパリサイ派に属するようになった。それゆえ主イエスは、律法学者やパリサイ人をきびしく告発し、彼らを公然と非難したのである。それは彼らが律法の真意を見失っていたからである。

     ここで主イエスが言われる真意とは何であるのか。
    「神の言葉を空文」にしている、と主イエスは言われた。
     この時、まだ新約聖書は存在していなかった。もちろん主イエスにも、父なる神にも、やがて聖霊なるお方が、使徒たちや、パウロや、主の兄弟たちを用いて、新約聖書を書き記すことは、分かっていたこと思う。

     この時代における「神の言葉」とは、ユダヤ聖書、すなわち旧約聖書のことを指す。旧約聖書における主イエスのご降臨の預言はすべて成就した。この後、十字架と復活の預言も成就することとなる。しかし、今現在においても、まだ成就していない預言が旧約聖書には存在しているのである。

     新約聖書が完成した今、もう旧約聖書はすべて終わった、と言うわけではない。「聖書」とは、旧約聖書と新約聖書をあわせた書物を指す。それは、新約聖書が完成された1900年後の今であっても、生きている書物なのである。決して「空文」ではない。

     私たちは、えてして新約聖書だけに注目しやすいが、旧約聖書も同じくらい読み、また学ぶ必要があると言える。

     さて、パリサイ人と律法学者は、旧約聖書に書かれた「み言葉」よりも、「昔の先祖たちの言い伝え」を重視した。父なる神が御使いを通してモーセに書かせたと言われている「モーセ五書」すなわち、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」
    、そこに書かれてある「神の言葉」よりも、人間の言葉を優先したのである。

     現在においても同じような「落とし穴」がある。
    「預言」は、今でもすたれてはいない。本物の「預言」は存在する。今でも「預言者」は存在すると言っても良いかも知れない。
     問題は、その預言者が語った言葉を、聖書の言葉の上に置こうとすることである。ダイヤモンドに本物があるように、偽物や人口のダイヤモンドも、多く存在する。本物の預言があるように、偽物の預言もより多く存在するのも事実なのだ。

    「聖書」を超える「預言」はすべて、偽りである。「聖書」こそが、絶対的な「神の言葉」なのである。「み言葉」と歩むことこそが、「聖霊なるお方」と共に歩む道なのである。

     主イエスは言われた。「これと同じようなことをたくさんしている。」と。
     主イエスは、パリサイ人や律法学者を厳しく告発し非難した。その本意は、彼らに「悔い改め」を迫っているのである。》

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