• 2025年9月21日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所「ルカの福音書11章1節~4節」(新約p.137上段右側)
    11:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい。」
    11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
    11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与え下さい。
    11:4 私たちの罪をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないで下さい。』」

    ◎メッセージ【主の祈り】
    《主イエスはよく祈っておられました。弟子たちは、主イエスが祈り終えるまで、待っていたことが分かります。
    「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい。」』
    この質問をしたのが誰であるのかは分かりませんが、十二使徒の中には、バプテスマのヨハネの弟子が二人いたことが分かっています。シモン・ペテロの弟アンデレと、ゼベタイの子ヨハネです。
    彼らは、バプテスマのヨハネの祈祷文を教わっており、覚えています。当時のラビは、それぞれの「祈祷文」を持っていたとも伝えられています。バプテスマのヨハネの働きは、「悔い改め」でしたから、祈祷分も「悔い改め」を導くものではなかったのではないでしょうか。
    その申し出を受けて、主は「主の祈り」を教えます。共観福音書の平行記事としては、マタイの「山上の垂訓」の中に、「主の祈り」は取りこまれています。それによりますと、ルカとは若干異なっています。よって、ルカとマタイによる「主の祈り」とは、同じ時と場所において教えられたのではなく、全く別の時点においてであることが分かります。
    そして、この祈りは、私たちクリスチャンに取っては、非常に重要な祈りであることが分かります。私たちは、毎日でも、この「主の祈り」を唱える必要があります。
    「父よ、御名が聖なるものとされますように。」
    ここで主が言われた「御名」とは、主イエスの御名のことです。
    「御国が来ますように。」
    御国とは、「天の御国」を指す事も事実ですが、この地上における「御国」のことです。すなわち、主イエス・キリストが再臨されて、この地上に建てられる「千年王国」のことです。
    「私たちの日ごとの糧を、毎日お与え下さい。」
    私たちは、肉体を持っています。肉体は、水と食物を要求します。ここで主は、「日ごとの糧」と言われています。一日分を、毎日お与え下さいということです。主イエスは、「山上の垂訓」において、次のように教えています。
    『「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」』と。
    「私たちの罪をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」
    この時点では、十字架と復活はまだ先のことです。主イエスの身代わりの十字架を通して、罪赦された者だからこそ、他人の罪を赦すことが出来るのです。
    「私たちを試みにあわせないで下さい。」
    「試み」は、神様が私たちの信仰を増し加える為に、悔い改める為に与えるものです。しかし、「誘惑」は違います。誘惑は悪魔から来ます。その為にも、私たちは自分の心を常に見張る必要があるのです。》

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