◇◆◇日々のみ言葉
2016年4月27日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書14章1節】
14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、公生涯において、弟子たちを伴いエルサレムに4回上られました。
詩篇において「都上りの歌」が、ダビデにより120篇から134篇にかけて歌われていますが、まさしく人々は、それを口ずさみながら「過越の祭り」の祝福に預かるために、エルサレムに巡礼したのでした。
イエス様は、週の初めの日に、ろばの子に乗ってエルサレムに入場されます。その日を「しゅろの祝日」と呼び、それは日曜日の出来事でした。その日から受難週が始まったのです。
ここで、「過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていた」と書かれていますが、ユダヤの数え方では、その日を含めますから、今日流に言えば「明日」と言うことになります。と言うことは、祭司長と律法学者たちが相談していたのは、木曜日のこととなります。
「さて、ユダヤ最高議会の面々である祭司長と律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」と書かれていますが、その時エルサレムにおける主イエス様への人々の人気と賞賛は、まさに絶頂を迎えていました。
彼らが主イエス様を殺そうとした理由は、ねたみと憎しみからでした。自分たちの権限を脅かす存在として恐れていたからです。何とか早くイエス様を片付けたかったのです。彼らは自分たちが何をしているのか、全く分からなかったのです。
イエス様を捕らえようとしても、なかなかその手立てがありませんでした。イエス様の回りには、いつも多くの群衆がついており、明るいうちに手を出すことはもちろん出来るはずもなく、また夜になると、イエス様と弟子たちがエルサレムではなく、他の場所に移ってしまいますので、なかなか居場所を見つけ出すことが難かしかったからです。
そこへ救世主のごとく、助っ人が現われることになります。それが十二使徒の一人であるイスカリオテ・ユダなのです。
いよいよマルコの福音書14章から、主イエス様の十字架と復活という福音の中心点に関する出来事に入って行きます。
「十字架」
ローマ帝国が考え出した、「見せしめ」としての最も残酷な刑である十字架。イエス様が、この十字架につけられることになるのは、あと一日後の出来事となります。
ユダヤの暦では、午後6時から新しい一日が始まりますので、今日の場面は、今で言うならば水曜日の午後6時過ぎとなります。
悪魔・悪霊が活発に活躍する時は、やはり日が沈んでからなのです。》