◇◆◇日々のみ言葉
2016年4月28日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書14章2節】
14:2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。
◎ショートメッセージ
《いよいよマルコの福音書の学びも、主イエス様の十字架と復活に場面へと入って行きます。
世界には多くの宗教が存在します。しかしそのすべてがにせものであり、その礼拝対象者は、究極的には悪魔と悪霊の何物でもありません。
キリスト教は、世界三大宗教の一つだと言われていますが、キリスト教は宗教ではありません。それは、ギリシャ哲学のソクラテスそしてプラトンから始まり、人間が求め続けて来た「真理」そのものなのです。
つまり、人間がなぜ存在し、そしてその存在の意味、また人間がどこから来てどこへ行くのか、その問いのすべてが、神の言葉である「聖書」に書かれているのです。
私たち人間は多くの物を発明して来ました。現在は、まさしく文明の利器に溢れています。例えばスマートフォン。携帯電話から始まって、ついにはミニコンピュターと呼べるほどにまで進化して来ました。その端末機に付属します取り扱い説明書も、どんどん厚みを増して来ています。
「パソコン」いわゆるパーソナルコンピュータですが、すべてを説明するには、あまりにも難しく、完璧に使いこなすには「コンピュター教室」に行き、教わらなくてはならないほどです。要するに、作られた物には「取り扱い説明書」は、必要不可欠なのです。
この世界は、神様が創造されました。使徒パウロが書きました、「コロサイ人への手紙」によれば、この世界も、そして私たち一人一人も、すべての物が、御子イエスによって創造されたと書かれています。そして神様は、その創造された最高傑作である人間の為に、人間の取り扱い説明書を欠かさずに用意して下さいました。
それが、それこそが「聖書」なのです。「聖書」の中心は、主イエス様です。そして「良き知らせ」すなわち福音の中心は、神様の愛の象徴であるイエス様の「十字架」と「復活」なのです。
イエス・キリストこそが、私たちを創造された主なるお方です。その真理を見い出し、主にすべてを捧げ、主に従う者の集まりが「教会」なのです。
さて、ユダヤ最高議会に君臨する祭司長たちや律法学者は、日が沈み、新しいユダヤの一日である「木曜日」が始まったばかりでしたが、「何とかして、イエス様をだまして捕え、殺すことができるか」、とけんめいでありました。過越の祭りは、いよいよ明日に迫っていたのです。しかし 「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話し合っていたのです。
彼らは、祭りが終わってからイエス様を捕らえて、死罪にしようと考えていたのです。これは人間の計画であり、また彼らを操っている悪魔と悪霊どもの計画でした。
しかし、父なる神様のご計画はそうではなかったのです。御子イエス様は、神の小羊として捧げられなければなりません。
それは、「過越の祭り」の時に、きずのない一歳の雄の小羊が捧げられるように、まさにその時でなければならなかったのです。いよいよここから、人類の歴史は一挙に急展開して行くことになります。》