◇◆◇日々のみ言葉
2016年9月22日(木)
◎聖書箇所 【ルカの福音書1章66節】
1:66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。
◎ショートメッセージ
《エリサベツは言いました。
「いいえ、ザカリヤではなく、ヨハネという名にしなければなりません。」そして、身振りで、ザカリヤに合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねたのです。
すると、ザカリヤは書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々は驚きました。
すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになったのです。そして神様を誉め称え始めたのです。
エルサレムに集まっていた近所の人々や、ザカリヤの親戚の人々は皆、神様を恐れたのでした。おそらくこの時、エリサベツが、夫ザカリヤに十ヵ月以上前に起こった出来事を詳しく話したと思われます。
それゆえ、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行ったのです。
ザカリヤの身に起こったことから、その妻エリサベツの懐妊と出産を始め、「その一部始終を聞いた人々はみな、それを心にとどめて」、とあります。それは深く胸に刻んだと言うことです。
そして「いったいこの子は何になるのでしょう。」と思い巡らしたのです。
彼こそが、マラキの預言に預言された者なのです。
『見よ。私は、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、私が来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ書4:5~4:6)』
そしてルカはこのようにも書き知るしています。『主の御手が彼とともにあったからである。』
これは、この後ヨハネが成長するにつれ、まさに神様の御手がヨハネとともにあったことを証しています。聖書には、具体的なことは何一つ書かれてはいませんが、まさしく選ばれた者としての特権があったことが分かります。
ところで、このことは、ヨハネだけに当てはまるのでしょうか。いいえ。新約の時代に生かされています私たち一人一人に対しても、当てはまることになると、信じています。
主の御手は、今も私たちに注がれています。そして主は、私たちと共にいて下さるのです。》