◇◆◇日々のみ言葉
2016年9月23日(金)
◎聖書箇所 【ルカの福音書1章67節】
1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
◎ショートメッセージ
《ザカリヤは、たちどころに、口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神を誉め称えました。
そしてザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言いました。
この預言は、「ベネディクトゥス」と呼ばれています。この預言の最初の言葉が、ラテン語では、「ベネディクトゥス」という言葉から始まっているからです。
礼拝の最後に、牧師先生が会衆の為に祈る祝福の祈りのことを、英語では「ベネディクション」と言いますが、同じ語源から来ています。つまりこれは祝福を祈る賛美であり、預言なのです。
カトリック教会のミサの典礼文には、同じように「ベネディクトゥス」が、含まれています。ザカリヤの賛歌と深い関係があることは、一目瞭然です。
ミサ曲も、多くの音楽家によって作曲されていますが、この分野の最高傑作も、マリヤの「マグニフィカト」と同じく、やはりJ.S.バッハです。バッハの最後の作品となった、ロ短調ミサを越える曲は、古今東西、存在しないと言っても過言ではありません。またバッハが、ルター派のプロテスタント信者であったことは、紛れもない事実です。
この作品と双璧を成しているのが、G.F.ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」です。宗教音楽において、この二曲を越える曲はありません。
しかし、宗教音楽ではなく、交響曲の中で、L.V.ベートーヴェンが作曲した、交響曲第九番ニ短調「合唱付き」は、先代となる二人の音楽家、バッハとヘンデルの作品以上に、人類史上最高傑作と言っても良いかと思います。その第四楽章の「合唱」こそ、神様を誉め称えている大賛歌なのです。
さて寄り道はここまでにして、ザカリヤの「ベネディクトゥス」に戻りたいと思います。
ザカリヤは、書き板にその子の名前を「ヨハネ」と書き記した時に、聖霊に満たされました。
本来は、聖霊ではなく「聖霊様」あるいは「聖霊なるお方」と言うべきです。「聖霊」と言いますと、「悪霊」すなわち悪い霊と相反する意味の言葉として、「聖霊」すなわち聖い霊と、理解してしまう誤解が生じる場合があるからです。
「悪霊」とは、かつて御使い(天使)であった者たちが、悪魔にそそのかされて堕落し悪霊となったのです。しかし「聖霊」は、非創造物ではありません。「聖霊」は人格を持っておられる第三位格の神様なのです。創造主なるお方なのです。だから本来は「聖霊様」と書くべきなのです。
何度も申しますが、そのお方は、私たちと同じく人格をお持ちでいらっしゃいます。それゆえ、そのお方が誰に触れ、誰に油注ぎを注がれるのも、そのお方の気のままに成される御わざなのです。まさに「風はその思うがままに吹く」と言うことです。
ザカリヤの唇と舌に触れられたのは、聖霊様です。それだからこそザカリヤは、そのお方に満たされたのです。満たされたと言うことは、そのお方がザカリヤを一時支配されたと言っても良いでしょう。ザカリヤ自身が、聖霊様にすべてを明け渡したからこそ、素晴らしい賛美と預言がザカリヤの唇を通して、流ちょうに流れ出したのです。》