◇◆◇日々のみ言葉
2017年4月16日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書16章1節~8節】
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
16:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
◎ショートメッセージ
《さて、今日はイースターです。復活祭です。毎年イースターの日は、違った日となり、その年の教会暦を見なければ、受難週もイースターの日も分かりません。
イースターとは、「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と定められています。
しかも西方教会では、「西暦」すなわちグレゴリオ暦を用いていますが、東方教会では、ユリウス暦を用いているのです。
よって、基本的には、西方教会と東方教会ではイースターの日は、違う日となるのです。しかし今年は、西方教会と東方教会は、同じ日、すなわち今日がイースターなのです。次に同じ日となるのは、2025年だそうです。
さて今日は、ルカの福音書の学びを中断し、イースター、主の復活について思い巡らして見たいと思います。
イエス様は、受難予告と一緒に、復活の預言もなされました。しかし十二使徒を始め、イエス様に付き従って来た女性たちには、その真意を理解することは出来ませんでした。
イエス様は、聖書の記録では、三人生き返らせましたが、そのご本人が死んでしまった場合には、一体誰がよみがえらせることが出来るのでしょうか。
これこそが、人間の理解の限界だったのです。
週の初めの日、すなわち日曜日、マグダラのマリヤを始め、三人の女性たちは、イエス様の葬られているアリマタヤのヨセフの墓へ行くと、墓の入り口をふさいでいた大きな丸い石はすでに転がされていました。
中に入ると、そこにはイエス様の御体を蒔いた布ぎれだけが残っており、御体はすっぽりと抜け出たように見当たりません。
そこへ二人の御使い、天使が現われたのです。彼女たちは、瞬間に、この世の者でないことを悟ります。
「驚いてはいけません。」
驚かない方が、恐れない方がおかしいくらいです。
ここで、いきなりイエス様が現われない所が、まさに神様の摂理です。しかし御使いが遣わされたのです。
この時点では、イエス様が本当によみがえられたのかは、彼女たちには分かりません。
しかし、しばらくしてから、マグダラのマリヤに、そして他の女性たちに、生きておられるそのお姿を現わされるのです。
十二使徒たちも、女性たちも、そして主の母マリヤや弟たち妹たちも、その他の五百人近い人たちも、よみがえられ生きておられる主イエス様に出会ったのです。それだからこそ、信じたのです。全く変えられたのです。
残念ながら私たちは、イエス様を見ることが許されてはいません。ただ信じるしかありません。
もしイエス様が、よみがえられなかったのなら、キリスト教は、主の十字架と共に終わったはずです。
主は、よみがえられたのです。ハッピー・イースター、おめでとう。》