◇◆◇日々のみ言葉
2017年12月1日(金)
◎聖書箇所 【ルカの福音書15章25節~28節】
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
◎ショートメッセージ
《今日から十二月ですね。「放蕩息子のたとえ」の六回目の学びです。
弟は、ついに我に返って、悔い改めたのです。
こうして彼は立ち上がって、父のみもとに帰って行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです。
弟息子は父親に言いました。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」
ところが父親は、それには答えずしもべたちにこう言ったのです。
「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
そして彼らは祝宴を始めました。
そこへ畑に行っていた兄息子が戻って来たのです。家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来るではありませんか。
「これはいったい何事か」と、しもべのひとりに訪ねてわけです。
主イエス様は、このたとえを誰に話されていますか。パリサイ人や律法学者たちにです。実は、このたとえ話の本当の主人公は、弟ではなく兄なのです。
彼らは聖書を知り尽くしています。この場面から、彼らは寸時にして、モーセを思い浮かべたはずなのです。イエス様の語られる「たとえ話」は、本当に奥義なのです。
出エジプト記には、
『モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。
「宿営の中にいくさの声がします。」
するとモーセは言った。
「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」
宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。(出エジプト記32:15~32:19)』と書かれています。
畑から戻って来た兄は、
「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」
と聞いて、怒ったのです。
パリサイ人や律法学者たちは、この兄が怒ったことは当然であると思っています。なぜなら、モーセの怒りは当然であったからです。
この兄は、家に入ろうともせず不平不満をぶつけていました。まさにパリサイ人や律法学者たちは、取税人の家には入ろうとはしなかったのです。
弟のしたことは「悪」であり、自分は「正」だと考えていますから、兄は父親の言うことに耳を傾けません。この兄こそが、パリサイ人や律法学者たちの比喩なのです。》