◇◆◇日々のみ言葉
2017年12月2日(土)
◎聖書箇所 【ルカの福音書15章29節~32節】
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
◎ショートメッセージ
《「放蕩息子のたとえ」の学びの七回目となります。
畑仕事から帰って来た兄は怒って家に入ろうともしませんでした。
「自分は、外で一生懸命に汗水流して働いて来たのに、異国に出かけ、財産を湯水のごとくに使った弟が帰って来れば、宴会だと。冗談じゃない。」と思っても当然です。
兄が呼んだひとりの僕は、兄が畑から帰って来たこと、そしてこの宴会の事情を知ったことを、主人である父親に伝えたに違いありません。
それで、父親が出て来て、兄をいろいろとなだめてみたのです。
すると兄はこう言います。
「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」
これこそが、パリサイ人や律法学者たちの言い分なのです。なぜイエス様が、取税人や罪人、遊女たちと食事を共にし、また彼らの中から使徒を選び、また彼らの病をいやされるのか、そのことに対して、この兄のように怒りを覚えているのです。
自分たちこそが、救いの恵みを受けるに相応しい者であると思っていたのです。
さて、たとえ話に戻ります。
父親は兄の言い分を聞いてこのように諭します。
「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
最初にも書きましたように、父親は遺産を兄と弟に半分ずつ分けてあげたのです。つまり長子、次男に関係なく平等にです。よって弟だけでなく兄も父親の財産を受け継いだのです。それ故、今ある父の財産は、兄息子の物なのです。
この兄は、パリサイ人や律法学者たちを指していますが、それだけではありません。選民であるユダヤ人を表わしており、究極的にはすべてのクリスチャンを表わしています。その場合には、弟は異邦人となり、また救われていない世の人々を表わしていることになります。
大切な真理は、救われた私たちには、父なる神様から、すでに与えられていることなのです。》