※本日の聖書箇所「ルカの福音書9章57節~62節」(新約p.134上段右側)
9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
9:59 イエスは別の人に、「私に従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」
9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」
9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」
◎メッセージ【私に従って来なさい】
《さて、主イエス一行がエルサレムを目指して、サマリア経由の道を進んでいた時のことです。ある人が主イエスに言いました。
「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
この人は、主イエスに付いて行く事を願いましたが、かつて、ガリラヤ湖畔において、シモン・ペテロとアンデレは、「私について来なさい」と言う主の言葉に従ったのです。
つまり、雲泥の差の違いがあるのです。それは、人間側からの願いではなく、主からの願いと言う点です。最後の晩餐において、主はその事を明らかにされました。
「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」
さて、主イエスは別の人に、「私に従って来なさい」と言われました。今度は、主イエスの方から、召し出されたのです。しかし、その人はこう言います。
「まず行って、父を葬ることをお許し下さい。」
これは、親孝行を思わせるような、感動的にも思えますが、実は断りの返事なのです。彼の父親は、病気にふせって死の間際にいるのではありません。その父親が、やがて死を迎えた時に葬儀をして後に、主について行くと言うわけです。
これは、主イエスの方から、召し出されたにも関わらず、それを拒否すると言うことです。実際に多くの人々が、主の救いの声に、召命の声に従おうとはしないことを私たちは見て来ました。
さて、次の別の人は、主イエスに言いました。
「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許し下さい。」
もちろん、家族に対して、自分自身が出した決断を伝えることは当然のことであり、また愛する家族のへの配慮とも言えるでしょう。しかし、主イエスはこのように言われます。
「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」
現代訳は、「だれでも私に従って行く決意をしてから、この世にのものに心が移って行くならば、神の国の働き人として、私の弟子としてふさわしくありません。」となっています。
つまり、「これは二心のことです」と尾山先生は解釈しています。神の国を求め、それと同時にこの世での成功や地位や財産を求めることは、出来ないと言うことです。二足のわらじは履くことは出来ないのです。
最後に、キリスト教は宗教ではありません。主イエス・キリストは、人類の救い主ですが、私たち一人一人の個人的な救い主でもあるのです。ガリラヤ湖畔において、主イエスが復活されたお姿を三度目に現わされた時に、シモン・ペテロに言われたのです。
「あなたは、私に従いなさい」と。私たちは人と比較する必要は全くないのです。大切な事は、私も、そしてあなたも、最後まで主に従うことなのです。》