◇◆◇日々のみ言葉
2017年11月30日(木)
◎聖書箇所 【ルカの福音書15章20節~24節】
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
◎ショートメッセージ
《「放蕩息子のたとえ」の学びの五回目となります。いよいよそのたとえのクライマックスを迎えます。
ついに彼は我に返り、自分を見つめ直すことが出来たのです。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、ひとりでとぼとぼと父のいる所に戻る為に、歩き出したのです。
おそらく彼が身を寄せた善意ある人は、豚の世話をした給金として、銀貨数枚を恵んでくれたに違いありません。
父親の御もとを出た時には、さっそうとロバに乗り、僕や護衛の者を従えての旅立ちであったのですが、それから一年も立たないうちに、ボロボロの衣服をまとい、臭い豚の糞尿にまみれながら、父親の元に向かったのです。
すると、彼が父親を見つける前に、父親が彼を見つけたのです。これは、自分の息子が何時でも帰って来ても良いように、ずっと父親が待っていてくれたと言うことです。これが私たちの信じる神様なのです。
父親は彼を見つけると、かわいそうに思い、走り寄って、豚の糞尿にまみれた汚い彼を抱き、口づけしたのです。
神様は、まさに有るがままを、そのままを受け入れてくださるお方なのです。
息子は泣きながら言います。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」
しかし父親は彼に答えることをせず、僕を呼び出すのです。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして父親は彼を抱きながら、家に向かいます。家に着くと、彼は水を浴び、真新しい衣服に着替え、靴をはき、手には息子である証しの指輪をはめるのです。そして僕らと共に、喜びに満ち溢れた祝宴を始めたのでした。
しかしその時には、兄息子は留守をしていたのです。》