◇◆◇日々のみ言葉
2017年11月29日(水)
◎聖書箇所 【ルカの福音書15章15節~19節】
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
◎ショートメッセージ
《今日は、「放蕩息子のたとえ」の学びの四回目となります。
父親から遺産の生前授与を受け取ると、幾日もたたぬうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立って行きました。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めたのです。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたのですが、おそらくたくさんの金を持っていた時に知り合った人なのでしょう。
働きもせず、毎日のように飲めや歌えの宴会を催したり、そんな放蕩三昧な彼を見て、親切にも忠告してくれた人かも知れません。
そして、ついに金が尽きた時、彼はその忠告を思い出して、その人を頼って助けを求めたと言うわけです。
するとその人は彼を畑にやって、豚の世話をさせたのです。豚は、ユダヤ人にとっては汚れた動物でした。その豚を飼育していることから、彼が旅立った国は、異邦人の国であることは明白です。
豚は、普段は人間が口にすることのない「いなご豆」を餌としていました。「いなご豆」と言いますと、私たちは洗礼者ヨハネを思い浮かべます。
マタイの福音書によりますと、
『このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。(マタイの福音書3:4)』と書かれています。
この「いなご」とは、バッタではなく「いなご豆」であったと言われています。それほど洗礼者ヨハネは、乏しい生活をしていたことが分かります。
彼はその豆で腹を満たしたいほどであったのですが、だれひとり彼には食べる物を与えようとはしなかったのです。
そしてついに彼は悟ります。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』と。」
飢え渇いて初めて人は悟るのです。自分の愚かさと、そして親のありがたさを。また人の忠告に耳を傾ける大切さを。
もし彼が、善意ある人の忠告を聞き入れていたとしたら、違う結果になっていたかも知れないのです。
しかし彼には、大きな恵みと哀れみが備えられていました。それは帰る家があったことです。
私たちにも帰る家が備えられているのです。》