• 2018年2月25日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年2月25日第四聖日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書13章34節~35節】 (新約p.190下段真中)
    13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
    13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

    ◎メッセージの概要 【新しい戒めとは?】
    《イスカリオテのユダが、外の暗闇の中に出て行った後に、主イエス様は、残った十一使徒たちに語られました。これはまさにイエス様の遺言とも言うべきものでした。
    「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
     実際に、この新しい戒めが有効になるのは、イエス様の十字架の御わざを経た後のことになります。旧約の終わりと新約の始まりは、イエス様の十字架上における神の小羊として、尊い血潮が流された時なのです。イエス様が、「完了した」と言われた時なのです。
     イエス様が「新しい戒め」と言われたのなら、当然「古い戒め」が存在します。それが律法です。
     イエス様に、ある律法学者が「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と質問して来ました。
     その時にイエス様は、「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」と答えられたのです。
     このイエス様のお答えこそが律法のすべてを凝縮していると言えます。特に二番目の答えは、レビ記からの引用です。『復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。私は主である。』
     さてイエス様は、「私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。
     これは、最後の晩餐の途中、聖餐式を制定される直前に、イエス様が突然なされた洗足のことから理解できます。
    『さて過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエス様は、その愛を残る所なく示された。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。』 何と、本来ならば異邦人の奴隷がすべきことを、師であるイエス様がなされたのです。これは「互いに仕え合いなさい。」と言うことを教えているのです。
     しかし弟子たちが、本当にイエス様の言葉の真意を理解するには、十字架と言う大きな試練を通らなければならなかったのです。
     十字架にこそ、神様の愛が示されています。そのことを使徒ヨハネは、はっきりと第一の手紙に書き記しています。
    『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』
     さて、本日の聖書箇所に戻ります。
    「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
     この時の弟子たちは、本当にイエス様から愛されていました。たっぷりと愛を注がれていました。しかし真の意味での大いなる愛は、彼らの身代わりとして、十字架にかかって死んで下さった時なのです。
     今でも多くの人々が、誠の愛を求めてさまよっています。人間の愛には限界があります。しかし神様とイエス様の私たちに対する愛は、上から滝のように降り注がれ、無限なのです。 神様の愛に、イエス様の愛にどっぷりと浸かりましょう。イエス様と言う目一杯、暖かい愛のお湯が注がれた湯船に、どっぷりと浸かりましょう。
     そうすると湯船からたくさんのお湯がこぼれ落ちて行きます。そのこぼれ落ちた、暖かい愛と言うお湯によって、多くの人々が触れられ、満たされ、いやされ、また神様の存在を知ることへとつながって行くのです。
     まず、私たち一人一人が、たっぷりとイエス様の愛を受けましょう。受け止めましょう。しかし一番の愛は、十字架なのです。十字架に勝る愛はどこにもありません。》

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