• 日々のみ言葉 2018年5月23日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2018年5月23日(水)

    ◎聖書箇所【ルカの福音書22章42節~44節】
    22:42「父よ。みこころならば、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
    22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
    22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

    ◎ショートメッセージ
    《エルサレム市内において、最後の晩餐を終えられると、イエス様はヨハネ・マルコの家を出て、いつものようにオリーブ山に行かれました。十一人の弟子たちも従いました。
     ゲッセマネの園のいつもの場所に着いたとき、イエス様は彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われたのです。

     ここでイエス様が弟子たちに言われた意味はどのようなことなのでしょうか。
    「誘惑」と言えば、それは罪の誘惑を示しますが、この場合には、祈らないと言う誘惑のことを指しています。なぜなら、イエス様は、これから数時間後には十字架にかけられることになるからです。

     弟子たちには、なぜイエス様が十字架につけられるのか、理解出来ませんでした。
     イエス様の公生涯において、四度目となる「過越の祭」に、彼らはイエス様と共にエルサレムに巡礼に来ていました。
     前三回の巡礼は、痛快なものでしたが、今回の巡礼では、イエス様は三度も受難予告をされ、マタイは四度目とも言える受難予告をされたことを書き記しています。
     彼らは、その意味が分からず、またイエス様に問いただすことも出来ず、まさに悲しみに満ちていたのです。

     そうです。彼らは霊的に鈍感だったのです。これは当時の彼らだけに当てはまるものではありません。今、現在の私たちも同じような過ちを犯すことは有りうるのです。

     悪魔は、クリスチャンの祈りの怖さ、凄さを知っています。それだからこそ、何とか祈らさせないように、あらゆる誘惑を仕掛けて来ます。興味を惹くような別なものを見せて来るのです。

     さて今日の日々のみ言葉に目を向けましょう。

     イエス様は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られました。
    「父よ。みこころならば、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

     この祈りのお言葉に、私たちは、人間イエス様を感じるのではないでしょうか。ここでイエス様が言われた「みこころ」とは、十字架の他ありません。
     イエス様は、まことの神様であられました。それと同時に、私たちと同じく、肉体を持つまことの人であったのです。

     ローマ軍が考え出した最も残酷な刑である十字架刑。その恐ろしさ。これから受ける苦痛。人間であるならば、それから逃げ出したいと思うのは、当たり前です。
     それだからこそ、祈られたのです。

     私は、このイエス様に強い共感を覚えます。イエス様は、人間の弱さを体験されたのです。知っておられるのです。決してスーパーマンではないのです。

     その肉体に宿られた霊は、確かに創造主なる神様であられましたが、約三十三年間、私たちと同じように人間として生きて下さったのです。

     だからこそ、「救い主」であり「助け主」であられるのです。私たち人間の弱さを知っておられるからこそ、助けることが出来るのです。

     明日も同じ箇所からさらに深く考えて見ることにしましょう。》

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