• 日々のみ言葉 2018年5月22日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2018年5月22日(火)

    ◎聖書箇所【ルカの福音書22章40節~41節】
    22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
    22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

    ◎ショートメッセージ
    《昨日と同じ箇所からの「日々のみ言葉」となります。

     イエス様は、良く祈られました。
    『イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(ルカの福音書5:16)』

     イエス様の祈りとは、父なる神様との交わりであったのです。それは決して一方通行ではなく、父なる神様との話し合いとも言えるべきものでした。

     イエス様はこのように言われました。
     
    『「私は、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、私が何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。私は、父の命令が永遠の命であることを知っています。それゆえ、私が話していることは、父が私に言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(ヨハネの福音書12:49~12:50)』

     また、このようにも話されました。
    『「私が父におり、父が私におられることを、あなたは信じないのですか。私があなたがたに言うことばは、私が自分から話しているのではありません。私のうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。私が父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネの福音書14:10~14:11)』

     ここから、イエス様が言われたことは、父なる神様が言われたことであること、またイエス様のなされた奇蹟や御わざは、父なる神様がイエス様を通してなされたわざであることが分かります。
     それゆえ、私たちは、イエス様と同じように「通り良き管」として下さるよう、祈り求めるのです。

     さて、父なる神様は、創造主としての人格と意思をお持ちです。そしてイエス様も、神の御子として、またひとりの人間としての意思をお持ちでおられます。

     その意思と意思とによる交わり、あるいは話合い、あるいは同意が必要なことは言うまでもありません。
     三位一体の神様は、三つの異なる人格を持っておられ、それでいてひとりの神様なのです。互いに支え合い、愛し合い、満たし合っておられます。

     しかし時には、その神様の位格同士において、話合うと言うよりも、その人格と人格との摩擦、あるいは意思と意思とのぶつかり合いなどは、全く無いのでしょうか。

     いいえ、もし皆無だとしたら、イエス様はゲッセマネには来なかったに違いないと私は思うのです。

     ゲッセマネの園こそが、父なる神様と御子イエス様との、壮絶な話し合い、いや、ぶつかり合いではなかったのではないでしょうか。》

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