• 2018年6月10日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年6月10日第二主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章20節~21節】 (新約p.192上段左側)
    14:20「その日には、私が父におり、あなたがたが私におり、私があなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
    14:21 私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。私を愛する人は私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身を彼に現わします。」

    ◎メッセージの概要【私を愛する人には】
    《イエス様は、やがてご自身が残していかなければならない十一人の弟子たちに、引き続き励ましの言葉を語り続けます。
    「その日には」とイエス様は言われます。実は、この惜別のメッセージでは、イエス様は三回ばかり、この言葉を使われるのです。
    「その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれをあなたがたにお与えになります。その日には、あなたがたは私の名によって求めるのです。私はあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」
     それでは、「その日」とは何時のことなのでしょうか。三つほど説があります。
     一つは、
     イエス様が復活された日です。生きているお姿を弟子たちに示された時です。
     二つ目は、
     イエス様が、再臨される日です。
     そして三つ目は、
     ペンテコステ、すなわち聖霊降誕日です。この説が一番有力です。
     イエス様が、十一弟子たちをオリーブ山に連れて行く時に、彼らにこのように言われたのです。
    「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」
     このお方は、弟子たちの中に内住され、まさに神が共に歩んで下さるのです。イエス様が言われた「私が父におり、あなたがたが私におり、私があなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」ことが、この時彼らに成就するわけです。このことを体験するのです。そして十一使徒たちは、ペンテコステの日に体験したのです。
     次に言われたことは、「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。」
     これは、聖霊様を受ける条件ではありません。聖霊様を受けた後の、愛する弟子たち、すべての信徒に向けての忠告なのです。
     イエス様の恵みを受け、聖霊様のバプテスマを受け、油注がれ、力を受けた人であっても、信仰の破綻に陥る者はいるのです。イエス様の愛から離れて行く者が存在するのです。
     それゆえ、イエス様は、私の愛の中に留まりなさい、と言われるのです。そして私の愛の中に留まることは、私の戒めを保ち守る人だ、と教えています。それでは、私の戒めを守こととは、どのようなことなのでしょうか。
     ヨハネは、このようにイエスの様の言葉を残しています。
    「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。それは、私が私の父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです。
     私がこれらのことをあなたがたに話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
     私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」
     クリスチャン同志、教会同志愛し合いなさい、と言う意味にも取れます。イエス様を愛する人は、イエス様の言われたみ言葉に聞き従う人なのです。それが戒めを守ることであることが分かります。
     それでは、私たちはどうやって、イエス様のみ言葉に聞き従えるのでしょうか。簡単に従うと言いましても、それは容易いことではなく、なかなか難しいことなのです。
     なぜならイエス様の御心と私たち人格の思いがぶつかるからです。つまり「分かっちゃいるけどやめられない。」のですし、自分の意思を貫き通したいのが人間なのです。
     もし、私たちが、「しなければならない。」と言う観念に取り憑かれれば、結局は、パリサイ人や律法学者たちと同じように、再び律法主義に戻ってしまいます。
     今でも多くの主の教会が、旧約時代と同じように、律法主義に陥っています。なぜなら律法主義の方が、教会運営がやりやすいからです。
     しかしそれはやがて、信者の喜びを奪って行くことになるのです。せっかく罪から、この世から解放され、生まれ変わったばかりの喜びに溢れる信者に、教会は別な新たな律法を押しつけるのです。
     それだからこそ、多くのクリスチャンが教会から去って行くことになるのです。救われた喜びは、やがて義務と服従に取り替えられるのです。
     それだからこそ、多くのクリスチャンには、喜びがなく、輝きもなく、そして周りに対する影響力もほとんどないのです。
     もちろん、主のみ言葉に聞き従うことこそが、最善であることは言うまでもないことです。
     それでは、どうしたら良いのでしょうか。
     主の愛を多くいただくのです。主の恵みを多くいただくのです。主からこれでもか、これでもかと言うほどの愛をいただく必要が私たちにはあるのです。
     主から溢れるばかりの愛をいただかない人に、いやいただけない人に、どうやって他の人を愛することが出来ると言うのでしょうか。
     それだからこそ、主イエス様に「私もその人を愛し、私自身を彼に現わし」ていただかなければならないのです。
     主を愛するからこそ私たちは礼拝し、私たちは献金し、私たちは賛美し誉め讃えるのです。主の愛は降り注がれています。その愛は無限です。主は私たちを本当に愛しておられます。
     ではどうしたらその愛をいただけるのでしょうか。簡単です。主に求めることなのです。
    「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」》

Comments are closed.