• 2018年8月12日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年8月12日第主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書15章6節~8節】 (新約p.193下段右側)
    15:6「だれでも、もし私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
    15:7 あなたがたが私にとどまり、私の言葉があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
    15:8 あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになるのです。」

    ◎メッセージの概要【とどまらないことと、とどまることとは?】
    《主イエス様は、十一人の弟子たちに突然、「ぶどうの木のたとえ」を話されました。

    『「私はまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。私の枝で実を結ばないものは皆、父がそれを取り除き、実を結ぶものは皆もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
     あなたがたは、私があなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです。私にとどまりなさい。私も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
     私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」』

     そして、そのたとえの続きが、今日の聖書箇所となります。さてイエス様は、ご自身がぶどうの木であり、私たちは枝であると言われました。

     この関係を使徒パウロは、オリーブの木と枝のたとえを用いて説明しています。

    『もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
     枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
     もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(ローマ11:17~11:22)』

     それでは、神様の哀れみによって救い主であるイエス様に出会い、恵みと祝福をいただいたにも関わらず、主イエス様の信仰から、自分の意思で離れるようなことが起こるのでしょうか。もしそうなったとしたら、イエス様は明確に言われます。

    「枯れます」と。

     ヘブル人への手紙の著者はこう警告します。

    『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみ言葉と、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(ヘブル6:4~6:6)』

     それでは、主イエス様にとどまることとはどのようなことなのでしょうか。それは主イエス様を神の御子として、メシヤとして、主として心から信じることです。そして主の言われたみ言葉と命令に従うことなのです。み言葉と共に歩むことこそが、主にとどまることであり、とどまり続けることなのです。

     使徒ヨハネはこう言っています。

    『あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。(第Ⅰヨハネ2:24)』と。

     そして次に言われたことが、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と言うことでした。

     もちろんこれには前提条件があります。それが「あなたがたが私にとどまり、私の言葉があなたがたにとどまるなら」と言うことです。

     つまり主イエス様の信仰を持ち続け、そして主の語られた「言葉」、実は「心」とも訳せるのです。主イエス様の心がとどまるならば、主の御心に沿った祈りならば、それは全部叶えられると言うことなのです。

     同じく使徒ヨハネは言います。

    『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。(第Ⅰヨハネ3:21~3:22)』

     よって自分の欲望を満たす祈りには、主イエス様は答えては下さらないのです。

     そして「あなたがたが多くの実を結び」と言われました。先週はそれが御霊の実であることを話させていただきましたが、今回はそうではなく、それは「良い行ない」のことです。

     イエス様は、山上の垂訓においてこう教えられました。
    『「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~5:16)』

     私たちは、人を祝福する為に、生かされているのです。そしてその「良い行ない」もすべて用意されているのです。

    『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)』

     ぶどうの実も、そしてオリーブの実のとても貴重です。ぶどうの実から、美味しいワインが出来ますし、ワインは「喜び」の代名詞となっています。

     またオリーブの実からはオリーブ油が取れ、灯りとなり、また薬としても重宝されています。そのような存在になることこそが、私たちの使命なのです。》

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