◇◆◇2018年9月16日第三主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書15章20節~25節】 (新約p.194上段左側)
15:20 「しもべはその主人にまさるものではない、と私があなたがたに言った言葉を覚えておきなさい。もし人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らが私の言葉を守ったなら、あなたがたの言葉をも守ります。
15:21 しかし彼らは、私の名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らが私を遣わした方を知らないからです。
15:22 もし私が来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
15:23 私を憎んでいる者は、私の父をも憎んでいるのです。
15:24 もし私が、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らは私をも、私の父をも見て、そのうえで憎んだのです。
15:25 これは、『彼らは理由なしに私を憎んだ。』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためです。」
◎メッセージの概要【私の名のゆえに】
《「しもべはその主人にまさるものではない、と私が言った言葉を覚えておきなさい。」
この言葉は、最後の晩餐の途中で、イエス様は弟子たちの足を洗われ、その直後に言われた言葉です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」
これは預言であって、人々がイエス様にしたことは、弟子たちにもするであろうことを意味しています。
イエス様は、「これは、『彼らは理由なしに私を憎んだ。』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためです。」とも言われました。
この預言は、ダビデによる詩篇に書き記されています。
『まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないで下さい。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにして下さい。(詩篇35:7・35:19)』
実際には、パリサイ人や律法学者そして祭司長たちは、「ねたみ」のゆえにイエス様を迫害したのです。その陰には、まことの神様と御子イエス様を憎む、闇の勢力が存在することを、先週学びました。その人格を持った邪悪な存在が、神様に敵対し、主イエス様に従う者たちをも攻撃しているのです。
さて、メッセージタイトルにもなっています「私の名のゆえに」と言うことを考えて見ましょう。実はこの言葉も預言であって、しかも二重の意味を持っています。
一つは、ペテロとヨハネが、「美しの門」に運ばれて来た、生まれつき足のきかない男の乞食を、イエス様の御名によっていやし、その為ユダヤ人の指導者に捕らえられ、次の日、すべての指導者の面前において、ペテロが弁明した時に成就しました。
そしてイエス様は、さらなる先見の目を持って、やがてご自身を信じる者たちが、「クリスチャン」と呼ばれるようになることを預言されたのです。
アンテオケにおけるバルナバとパウロの働きから、「キリストに属する」あるいは「キリストに従う」者として、ギリシャ語「クリストス」に、所属を表す「イアノス」がついて、「クリスティアノス」となり、英語音訳がクリスチャンとなります。
この時から、主イエス様を信じる者は、日本語訳では「キリスト者」と呼ばれることになったわけです。
当然敵である悪魔・悪霊どもはそれを知っています。そしてそれこそが、旗印をあげる結果となり、師であるイエス様が迫害を受けられたように、弟子である私たちも迫害を受けることになるのです。
「私の名のゆえに」
私たちは、主の御名を与えられている者なのです。シモン・ペテロが言うように、「この方以外には、だれによっても救いはありませんし、世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない。」からです。
そしてその御名のもとに守られ、約束の聖霊の証印を押されています。そればかりでなく、主の御名によって、求めるものは何でも、与えられるのです。》