◇◆◇日々のみ言葉
2018年9月23日(日)
◎聖書箇所【使徒の働き2章33節】
2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
◎ショートメッセージ
《そしてシモン・ペテロは、はっきりと、今ここに集まって来た人々が見聞きしていることを説明しています。
見聞きしていることとは、
『さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国の言葉で弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
彼らは驚き怪しんで言った。
「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国言葉で神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
人々はみな、驚き惑って、互いに
「いったいこれはどうしたことか。」
と言った。
しかし、他に
「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」
と言ってあざける者たちもいた。(使徒の働き2:5~2:13)』と言うことを指すのです。
このことに対する説明が、「聖霊」の仕業であることを明確にしているのです。
旧約聖書の中には、ダビデの詩篇の一カ所だけですが、「聖霊」も預言されています。
『私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないで下さい。(詩篇51:11)』
この箇所から、ダビデ王も聖霊の油注ぎの中を歩んでいたことが分かります。まさしく王は、「油注がれた者」でもあるのです。
第一サムエル記には、
『こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。
「主はこの者たちを選んではおられない。」
サムエルはエッサイに言った。
「子どもたちはこれで全部ですか。」
エッサイは答えた。
「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」
サムエルはエッサイに言った。
「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。
「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。(第一サムエル記16:10~16:13)』と書かれています。
この時にも主の霊(聖霊)がダビデに降られたのです。
しかしペンテコステの時には違います。特定の人だけにではなく、主を信じるすべての信徒の上に降られたからです。》