◇◆◇日々のみ言葉
2018年9月24日(月)
◎聖書箇所【使徒の働き2章34節~36節】
2:34 「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 私があなたの敵をあなたの足台とするまでは私の右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
◎ショートメッセージ
《シモン・ペテロのメッセージもいよいよクライマックスに差し掛かります。
ペテロは、ダビデが昇天したのではないことを、明確に伝えています。なぜなら彼ら十一使徒の見ている間に、天に昇って行かれたのは主イエス様だからです。
そして、ここにおいても詩篇からのみ言葉を引用しているのです。タイトルには「ダビデの賛歌」と書かれています。
『主は、私の主に仰せられる。「私がをあなたの敵をあなたの足台とするまでは、私の右の座に着いていよ。」(詩篇110:1)』
ダビデが最初に言った「主」とは、父なる神様を表わし、そして「私の主」とはイエス様を指しています。この詩篇を詠んだ時、ダビデはその霊の目を持って、その光景を垣間見たと私は思っています。
実は、この詩篇をイエス様が公生涯の間に引用されているのです。相手はパリサイ人や律法学者たちです。
マタイによりますと、
『パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」
(マタイの福音書22:41~22:45)』と書かれています。
イエス様が言われたことは、ダビデに取っては、血のつながった自分の子孫であると同時に、自分の主である、と言うことなのです。
そしてペテロが言った意味は、ダビデが「私の主」と詩篇で詠った主こそが、ユダヤ人が十字架にかけた「ナザレのイエス」であることなのです。》