◇◆◇2018年12月2日第一主日第一アドベント礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書16章29節~33節】 (新約p.196下段右側)
16:29 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
16:30 いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私をひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、私はひとりではありません。父が私と一緒におられるからです。
16:33 私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」
◎メッセージの概要【勇敢でありなさい】
《弟子たちは言いました。
「今、私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
しかし、イエス様は答えられたのです。
「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私をひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。」と。
これは預言です。さらに、
「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」
と言われ、ここでイエス様はメッセージを終えられたのです。
今日は、特にこの最後の締めくくりの言葉について考えて行きたいと思います。
まず、「私にあって平安を持つため」ですが、イエス様の三度にもおよぶ受難予告によって、また彼らの中に裏切り者がいることから、彼らは確かに不安の中にいました。しかし、この時には、まだ主イエス様は共にいて下さったのです。
やがて本当に、彼らにどん底まで落とされる時がやって来ます。その時に備えての預言と励ましではありません。主がオリーブ山において昇天された後のことを指しているのです。
少し前にも、イエス様はこのように預言されました。
「私は、あなたがたに平安を残します。私は、あなたがたに私の平安を与えます。私があなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
この預言も、昇天後に成就するのです。
それでは、「世が与える平安」とは違う、「私の平安」とは何でしょうか。
かつて旧約時代に、イエス様と同じ名前であり、イスラエルを導く指導者がおりました。そうです。モーゼの跡をついだヌンの子ヨシュアです。神様はヨシュアに語られました。
「私のしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。私は、モーセと共にいたように、あなたと共にいよう。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
強くあれ。雄々しくあれ。私が彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
ただ強く、雄々しくあって、私のしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」
この言葉を授けられる前のヨシュアはどのような状態であったでしょうか。その正反対であったのです。ヨシュアは、恐れおののき、不安に満たされていたのです。ここに「平安」の奥義が語られています。それは、主が共にいてくださることなのです。
私たちは、自分の力で、自分以上強い相手と戦うことは出来ません。ましてや、自分の力で、悪魔と戦うことも出来ないのです。しかし、今は違います。私たちには、主イエス様の御名を使うことが許されているのです。なぜなら、ヨシュアへの約束は、今を生きる私たちへの約束でもあるからです。
さて、「あなたがたには世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」と言われました。
もちろん、これも預言であり、十字架によって勝利がもたらされることになるのです。そして復活された主が、オリーブ山において昇天された後、いよいよ主のこのみ言葉が成就し始めるのです。
生まれつき足のきかない男を癒やし、ユダヤ最高議会に捕らえられたペテロとヨハネとの大胆さを見た議員たちは、ふたりが無学な、普通の人であることを知って驚き、ふたりがイエスと共にいたのだ、ということがわかったのです。
使徒パウロは勧めます。
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と。
主が約束された聖霊なるお方が共にいて下さるのです。それは、主イエス様が共にいて下さることと同じことであり、それだからこそ、私たちは主にあって勇敢になれるのです。
私たち、主イエス様を信じ従う者には、この世にあっては艱難があります。しかし、決して私たちは見捨てられません。孤児にはされません。この世界を創造されたお方、主イエス・キリストがいつも共にいて下さるのです。だからこそ、勇敢であるべきなのです。》