• 2019年5月19日(日)礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年5月19日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【マタイの福音書28章16節~20節】 (新約p.57下段左側)
    28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
    28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
    28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
    28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
    28:20 また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」

    ◎メッセージの概要【指示された山とは?】
    《さて、今日はマタイの福音書にしか書かれていない記事について考えてみましょう。
     イエス様が、十字架の直前に、ゲッセマネの園に向かわれる時、弟子たちに言った預言は、「しかし私は、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」でした。
     そして、よみがえられた日の朝、御使いが語ったマグダラのマリヤと女たちへの伝言も、「恐れてはいけません。急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」でした。
     またイエス様自身も彼女たちに現われて、「恐れてはいけません。行って、私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えるのです。」と言われたのです。
     イエス様の弟子たちの最初の命令は、「ガリラヤに行きなさい」と言うことだったのです。
     そして今日の聖書箇所において、『十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。』とマタイは書き記していますが、主イエス様のこの弟子たちへの現われは、四回目となります。
     それでは、何時イエス様は、弟子たちに「山」に登るように指示されたのでしょうか。それは三回目の現われの時となります。そのことについては、先週学んだ通りで、ガリラヤ湖において、153匹の魚が捕れ、主イエス様と共に朝の食事をした時であると考えられます。
     ところで、主イエス様が指示された「山」とは一体どこの山を指すのでしょうか。
     主イエス様が変貌されたと言われるヘルモン山は、ガリラヤからさらに遡った場所であって、そこはガリラヤではなくフェニキアに属しますから、明らかに違うと言えます。
     実はガリラヤ湖周辺には高い山はないのです。よって「山」と言うよりも「丘」であった可能性は非常に高いと、尾山令仁先生は言われます。
     さて、ルカは、主イエス様の十二使徒の召命について、このように書き記しています。
    『この頃、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
     すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。』と。
     ここに出て来る「山」こそが、主イエス様が、弟子たちに指示された山となります。十一弟子たちが、かつてと同じように、その山に登った時、主イエス様が現われました。そして彼らは礼拝したのです。
     その後、聖書には書かれてはいませんが、主イエス様は、十一弟子たちを十一使徒として、再任命されたのです。
     さてマタイは、「しかし、ある者は疑った。」と書き記していますが、これには二通りの解釈が考えられます。
     一つは、この時十一弟子の他にも多くの弟子がいて、その弟子たちは、初めて復活された主イエス様にお会いするわけですから、疑うのも当然です。
     しかし十一弟子の中には、この時には誰も疑う者はいなかったのです。なぜなら、弟子たちは、よみがえられた主イエス様とお会いすることは、すでに四回目となるからです。ただしトマスは三回目であり、またペテロに至っては五回目となります。
     そしてもう一つの解釈は、「トマス」の件について、マタイは思い起こしたように書き記したと言うことです。「そう言えば、あの時トマスは疑ったよな。そんなこともあった。」と言う具合にです。
     私は、このマタイの福音書28章の記事の誤解を解くためにも、ヨハネは福音書を書き記したのではないかと考えています。ヨハネが福音書を執筆した時には、3つの共観福音書、続編使徒の働き、パウロの書簡、ペテロの書簡等、すべての写しを、エペソ教会において、手元に持っていたことは、ほぼ確実なのです。
     ある者とは、「トマス」です。ヨハネの福音書によれば、
    『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らと一緒にいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。』と書かれています。この後、一週間後の日曜日に再び、十一使徒たちに主イエス様は現われて下さるのです。
     さて、主イエス様はトマスに言われました。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と。
     さて、「ある者は疑った」とマタイは書き記していますが、この「ある者」こそ、私たち自身を指しています。私たちは、なかなか主イエス様を信じ切ることが出来ないのです。主イエス様と三年半も共に生活した弟子たちでさえ、主の復活を、また主の語られた御言葉を信じることが出来なかったのです。そうであるとしたら、今イエス様を見ることが出来ない私たちは、真剣に心から信じ、全存在を賭けて信頼することは、難しいと言えるでしょう。
     しかし主イエス様は、十一使徒たちにこのように約束されたのです。
    「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。」と。
     この約束は、弟子たちだけでなく、私たちにも当てはまるのです。そして、
    『「私がいのちのパンです。私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」』とも約束されました。だからこそガリラヤ湖において、153匹の魚が捕れたのです。しかし、その時すでに主は朝食を用意されていました。
     私たちが一番心配することは肉の糧であり、特に肉体を持っていますから飢えと渇きへの恐れは、いつも付きまとって来ます。しかし主イエス様は、食物のことを心配することを禁じています。思い煩うことも禁じています。なぜならそれは不信仰の何物でもないからです。
    「山」とは、主イエス様に最初にお会いした場所を指します。そして迷い出た弟子たちは、また迷い出た者は、今一度、原点に立ち返る必要があったのです。そして指示された場所に再び戻った時に、主イエス様は、証人として再任命され、そして立ち上がらせて下さるのです。そして再び、主イエス様の弟子として、遣わされることになるのです。
     このお方は、今も生きておられます。主イエス様は、昨日も今日も、そして永遠に変わらないお方です。このお方に、すべてを委ねて生きて行く人生こそが、最高のクリスチャンライフであり、また人生における最高のサクセスストーリーなのです。》

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