• 2019年6月23日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年6月23日第四主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【マルコの福音書2章1節~12節】 (新約p.61上段真中)
    2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
    2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみ言葉を話しておられた。
    2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
    2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
    2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
    2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
    2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
    2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
    2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
    2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
    2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
    2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

    ◎メッセージの概要【あなたの罪は赦された】
    《今日はマルコの福音書から、「中風の人のいやし」の奇跡について学びたいと思います。「中風」とは、広辞苑によりますと、正式の呼び名はちゅうぶうで、ちゅうぶでもちゅうふうでも良いそうです。一般的には、脳出血や脳梗塞後に残る麻痺状態を言います。
     この記事は、三つの共観福音書に記載されています。マルコが一番詳細にわたって書き記しています。マタイは、簡潔に書き記しています。なぜなら彼はこの時には、まだ救われていなかったからです。このすぐ後に、イエス様がカペナウムの取税所に行かれ、罪人の代名詞であった取税人の罪を赦すことになるのです。
     さて、このことが起こったのは、カペナウムのシモン・ペテロの家であることは疑いのないことです。
     その日、多くのユダヤ人たちがペテロの家に集まったのです。その時4人の友人が一人の中風にかかって動けない人を寝床に運んでやって来たのですが、戸口までびっしりと人がいた為、彼らは入ろうとしても入ることが出来ず、何と屋根に上って、屋根を壊し、そこから中風の人をイエス様の前に、吊り降ろしたと言うのです。
     おそらく家中が埃と泥だらけになったに違いありません。本当なら、そこには怒号と怒りしか存在しえない場所において、成された奇跡であることが分かります。特に、家の主人であるペテロの怒りはいかばかりであったでしょうか。
     さて、この場面には、三つの立場が存在します。一つは、イエス様の側に立つ弟子たちの立場です。この時には、まだ使徒たちの数は半分くらいではなかったかと思われます。彼らは主イエス様を信じ従って来た者たちです。
     もう一つは、律法学者とパリサイ人の立場です。彼らは、イエス様を信じようともしない者たちで、また疑い深い者たちです。この二つの立場は、全く真逆であって、まさに敵対関係であったわけです。
     そして残ったもう一つの立場とは、何でしょうか。
     それは、吊り降ろされた「中風の人」の立場なのです。
     さて、イエス様は、「子よ。(ルカでは友よ)あなたの罪は赦されました。」と彼に言われます。それを聞いたその場にすわっていた律法学者たちは、怒りを覚えて、心の中でこう言ったのです。
    「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
     しかしイエス様は、人に取って一番大切なことを言われたのです。それが罪の赦しです。イエス様は、まことの人であると同時にまことの神様ですから、その権威をお持ちなのです。
    「罪の赦し」とは、魂の救いを意味します。私たちが傷つくのは体だけではないのです。もちろん中風の人に取っては、体がいやされ、また元のように元気に起きて歩けることが必要なことは言うまでもありません。
     しかしそれ以上にもっと重要で大切なことは「罪の赦し」であって、魂の赦しと解放なのです。イエス様は、それを最初に明らかにされたのです。
     人は傷つきます。その傷を負うのは、霊ではなく魂の部分なのです。魂が傷つくと、その影響がその人の体に出て来ます。私たちに必要なことは、魂の救いなのです。
     私たちは、弟子側でもなく、また敵対する律法学者側でもなく、実はこの「中風の人」の立場にいる者なのです。
    「あなたの罪は赦されました。」とその言葉は、中風の人だけでなく、私たち一人一人に語られているのです。
     イエス様は、弟子たちに命じられました。
    「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」
     自分の罪の赦された経験のない者が、どうして他人の罪を赦すことが出来るのでしょうか。あるいは、イエス様によって自分の罪を赦されたことを、過去の出来事かのように、すっかり忘れてしまったとしたら、どうして他人の罪を赦すことが出来ると言うのでしょうか。
    「子よ。友よ。あなたの罪は赦されました。」
     私たちは、主イエス様が言われたこの言葉を、何時も、どんな時にでも自分自身に向けて語る必要があるのです。
     私たちの罪は赦されています。イエス様の十字架によって。
     この奇跡の後、イエス様はアルパヨの子レビと、その弟ヤコブの罪を赦され、彼らを弟子に加えられ、やがて十二使徒に任命します。まさに罪赦され、彼らは新しい人生を生き始めるのです。
    「子よ。友よ。あなたの罪は赦されました。」この言葉は、今、ここにいる私たち、一人一人に、今も向けられているのです。》

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