◇◆◇日々のみ言葉
2019年6月25日(火)
◎聖書箇所【使徒の働き13章1節】
13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
◎ショートメッセージ
《昨日は、クレネ人ルキオについて考えて見ました。今日は引き続き同じ箇所からとなりますが、『国主ヘロデの乳兄弟マナエン』について考えたいと思います。
幼児であった主イエス様の命をねらったのは、言うまでもなく悪王ヘロデ大王のことです。
この王は、紀元前73年に生まれ、紀元前37にローマの後ろだてによって、ユダヤの王として即位しました。紀元前4年に、自分の妻や子どもたちを処刑したと言う罪、またベツレヘムの2歳以下の男子の幼子を虐殺した罪によって、神様の裁きを受けて、奇病で死んでいきます。よって死んだ時は70歳に近かったと思われます。
さて、ヘロデ大王はその生涯において10人の妻を持ちました。その4番目の妻の最初の子がアケラオで、次男がアンティパスとなります。
アンティパスは、父ヘロデが紀元前4年に死ぬまでには、すでに存在していたことは明白ですし、また主イエス様よりも年上であったことは事実です。
さて、マナエンとは、ヘブル語のメナヘーム(慰める者)のギリシヤ語の呼び名です。ヨセフォスの『ユダヤ古代誌』によれば、マナエンはエッセネ派のマナエン(同じ名)の子孫か、あるいは親族と言われています。
このエッセネ派のマナエンは、アンティパスの父ヘロデ大王が幼少の頃、彼が王国を継ぐようになると預言しました。そして、その預言が成就したので、ヘロデ大王はマナエンとその一派とを優遇したと伝えられています。
しかもマナエンは、アンティパスと乳兄弟であったと言うのです。これは、王子であったアンティパスと、ほぼ年齢は同じくらいであって、王宮において、一緒に高等教育を受け、また育てられたことを意味します。
やがて、二人とも成人します。おそらくマナエンは、ヘロデ・アンティパスにとって、なくてはならない幼なじみとして、また信頼出来る家臣、あるいは友として、アンティパスの政治を支える要職についていたことは間違いありません。
それでは、彼はいったい何時、主イエス様に対する信仰を持ったのでしょうか。彼は、アンティパスとほぼ同じ年齢なはずですから、主イエス様よりも年上であるはずです。
主イエス様が、十字架にかけられる日でしょうか。
確かにこの時、ポンテオ・ピラトは、エルサレムにヘロデ・アンティパスが巡礼に来ていることを知って、イエス様をアンティパスの所に送ります。その席上にマナエンが同席していたことは間違いありません。
だからこそ、私たちは、この場面を聖書に見るのです。しかし、この場面にマナエンの改心は書かれてはいないのです。
とすれば、マナエンは、主イエス様が3年半における公生涯の間に、ニコデモのように、どこかでイエス様とお会いし、信仰を持ったことになります。
明日は、この続きです。》